句碑建立第2回HAIKU日本大賞 春の句

準大賞

(評)昔の人の句に「お遍路の誰もが持てる不仕合」白象 というのがありますが、春のお遍路さんには少し暗すぎますね。掲句は春の明るい面を前面に出しながらも「背」というところがそれぞれの生きづらさを暗に告げているようで、そこがおもしろいと思いました。(畠田秀峰安楽寺老師)
お遍路さんは、何らかの人生の課題を抱えた人という面を持っているのかもしれません。お遍路は修行の旅であり心の旅でもあるのでしょう。それぞれのお遍路さんの背に優しく吹く心地よい「春の風」。味わい深く奥行きを感じさせる俳句です。(神野喜美女 評)
特選

岸本尚毅(俳人・NHK俳句選者)選
(評)「干物干す」とあるのは、アジだとかカマスだとか、魚種を特定するわけでもなく、ただ何となく、このへんで獲れた魚が干してある情景を眺めている。そんな鄙びた感じの「港」です。「東風」は春の訪れを思わせます。東風といえば「鰆東風」など、瀬戸内海の漁業につながるイメージもあるでしょうか。瀬戸内海だとすれば遍路とも近しい。「昼下がり」は静かでのんびりとした感じ。風景の句であり、一句全体からにじみ出てくる独特の気分があります。中七の途中に「や」の切れがあり、句形もよく整っています。

鹿又英一(蛮の会主宰)選
(評)「畳紙(たとうし)」に包まれているのは「春袷」でしょう。イメージは、裏地のついた明るく軽やかな着物です。「袷」は、更衣の日(旧暦四月一日)に、それまで着ていた綿入れを脱いで着替える裏地だけの着物のことで、初夏の季語です。しかし、冷暖房のある現代感覚からすれば違和感があります。そこで、「春袷」という新しい季語が生まれました。過去の例句を見ても俳諧時代には当然無く、昭和に入ってからの句ばかりです。掲句、直接「春袷」と言わず、「春日和」を使いメタファーを効かせたことに脱帽しました。

鎌田俊(河副主宰)選
(評)自分がここにいる不思議を振り返り、自分がなぜこの世に生を受け、どうして生きているのかを問うことは誰にでも一度は経験があることではないでしょうか。この句の作者も折々に触れ、自分のいのちの意義に思いをめぐらせてきたに違いありません。ある時、ある場所の桜との一期一会を経て、桜の美しさや儚さを感受し放下している自分こそ、人間としての本然であると思い至ったようです。人生の困難を抱擁する一句として根本に諧謔を置いた、大きく明るい作品です。

神野喜美女(HAIKU日本理事長)選
(評)子どもは結婚し子を持つ中で、母として成長し母から受けてきた深い情愛を知ります。心の中では子はいつまでも子で、親はいつまでも親ですが、老いて親は子に還り立場が逆転することもあります。繰り返した「母」と「子」の文字が穏やかな空気を醸しだし、そこに「春の風」がふわりと寄り添っています。いつか訪れる親子の関係を淡々と綴るからこそ心に沁みてきます。
秀逸句
(評)桜の咲く頃は入学式や新学期が始まり、皆新たな気持ちで春を迎えます。そこには希望があり新しい環境での緊張した面持ちも見て取れます。「桜咲く」の措辞には作者の子どもたちへの応援する気持ちも込められているのを感じます。
(評)「啓蟄」は新暦なら3月5日頃に当たります。土の中で冬眠していた虫や蛙などが穴を出て、地上に這い出してくるという季語です。妻との楽しそうな会話や幸せいっぱいの姿が浮かんできます。「啓蟄」の日の気分を素直に詠んだ一句。措辞には妻への愛が詠み込まれていて、夫婦の仲の良さが伝わってきます。「揃ひのスニーカー」という素材も新鮮で、明るさを感じさせる春の季節によく似合っています。
(評)「字余りは上へ置け」は俳句の常套手段です。父の姿を優しい眼差しで見つめている作者。所在無げな父の姿に、老いていく男の一抹の不安まで読者に感じ取らせますが、所在無げに見えても、人生の数々の波風をくぐり抜けて今に至っているのです。そんな父の姿に感謝の気持ちと、今はもうのんびりと暮らしてほしいと願う家族の確かな愛が感じられます。
(評)お遍路の菅笠には「迷故三界城」「悟故十方空」などの文字が書かれています。これは人が迷いの世界から脱して、悟りの境地に達する弘法大師の教えと言われています。遍路旅をする一抹の寂寥感が「笠の薄明り」に込められていて、これからの厳しい道のりが想起されます。名詞のみで詠むことで緊張感が伝わり、歯切れの良い格調高い一句となっています。
(評)厳しい冬の海から柔らかな海へと変わる春。「春潮」には、そうした穏やかな面もあれば、干満の差が大きくダイナミックな流れの時もあります。明るく豊かな「春潮」に揺られて島へ帰る船に遺骨を乗せ、故郷に帰れる安堵感も漂います。この世の学びをすべて終えた魂を敬う優しさも、「春潮」だからこそより強く伝わってきます。
(評)季節に先駆けて早くも鳴き出した蝉の声が聞こえてきたのでしょう。無医村が多くなってしまったところが増える中、この島には診療所が存在し、多くの命を救ってきたのに違いありません。診療所を取り巻く人々の生活や人情を想像させます。「一つの診療所」に計り知れない程の作者の想いが詰まっています。
(評)教育の現場でも紙媒体からどんどん遠ざかり、パソコンやタブレットなどを使用したデジタル化が進んでいます。真新しい教科書やノートをランドセル一杯に詰め込むことなど今時はあまりないそうです。そうした世の中にあっても、昔と変わらない姿で咲き続ける「蒲公英」の愛らしさに心が和みます。進化し続けることへの懸念と、変わらず在り続ける自然との対比を十七音で見事に提示しています。
(評)2011年3月11日、宮城県三陸沖を震源とした巨大地震。マグニチュードは観測史上最大の9.0。数年前の改定により「三月十一日」は季語に加えられました。14年目のこの日も地震発生時刻と同じ午後2時46分、日本の空に追悼のサイレンが響きました。思いも景色も何もかも省略した句が、この日の哀しみを増幅させます。
(評)四国八十八か所すべてを巡り終えた後、お礼参りに高野山を参拝しての景。高野山に詣でて、巡礼の無事と結願の報告や感謝を伝えます。奥の院で頂く御朱印は、行った者でしか味わえない格別なものでしょう。そんな高野山で「花吹雪」が舞っていたとは、作者の達成感は計り知れません。費やした日々、苦しかった道中など、その重さが存分に伝わってきます。
(評)現代語でさらりと死を詠んでいます。「月朧」の美しい季語で納めた一句は、ストレートな詠みに深い余韻を残します。この悲しみをどのように表せばいいのか・・・。呟くような言葉で表現されていて、すっと作者の胸に降りてきたかのような自然な措辞です。君への愛と悲しみが込められています。「月朧」の持つ語感や景色が、作者の想いを優しく表しています。
(評)「一本道」は実景かもしれないし、今日まで歩いてきた人生のことを言っているのかもしれません。人生を振り返ってみると誰しもいくつかの分かれ道があり、その都度思案し悩み考えて選択してきたに違いありません。そんな苦労も振り返ってみれば「一本道」を進んできたと断定する作者。作者の人生の歩みが確かなものだったからでしょう。「風光る」の季語によって、人生そのものが眩いばかりに輝きます。
(評)「雲雀野」は雲雀(ヒバリ)が野原や草地で飛び交い、鳴き交わす活動的な様子をイメージさせます。子供の頃なら隠れん坊の鬼で一人残されたか、年齢を重ねているなら今生の世に先立たれてしまったのか。様々なことを思い浮かばせる一句となっています。一日中のどかに囀る雲雀とは対照的な「一人」の存在が心に残ります。五五七の破調で詠んでおり、一人残された心許ない不安な心境がよく伝わってきます。
(評)散りゆく桜を眼の前に感慨深く詠んだ一句。桜に限らず咲く花の美しさはそれぞれに趣がありますが、散る花の美しさでは桜にかなうものはありません。桜の美しさを詠むにふさわしく、流れるような措辞が心に残ります。短い期間しか見られない風に乗り舞い飛ぶ美しさを、日本中で万人が味わっています。桜が愛され続ける所以なのでしょう。
(評)「柔らかし」が、春に降る雨のしっとりとした趣をよく伝えています。花の中で最も優れたものの意で、「百花王」と呼ばれる牡丹。晩春から初夏にかけ白、紅、黄など豊麗な花を咲かせ、人々の目を楽しませてくれます。芽が出るのは早春で赤い色をしています。句からは日に日に膨らんでくる芽を、大切に育てる作者の横顔が見えてきます。
(評)春にスタートすることの多いお遍路さんのバスツアー。団体バスで訪れるお遍路さんの一行を想像させます。過去詠嘆の助動詞「けり」で結句させた自然体の俳句は、詠めそうでなかなか詠めないもの。読者の胸にスッと入ってくる軽みの効いた写生俳句です。「賑やかに」の上五からは明るい会話が飛び交う様子が感じ取れ、同じ目標を成し遂げようとする遍路一行の心の通じ合った時間が見えてきます。
(評)「菜飯」は大根の葉や小松菜を細かく刻み、生のままご飯に混ぜたもの、また、茹でて刻んだ青菜をご飯に混ぜたものも言います。春らしい豊かな香りが楽しめる一品です。素朴な味を「黙々と」食べているという一句一章句。誰にも遠慮のいらない「ひとり旅」の気楽な様子がよく出ています。
(評)春のまばゆい朝日の中のほのぼのとしたワンシーン。喜びの朝を切り取った微笑ましい景が浮かびます。核家族化が進み大家族の頃には当たり前だった光景も、今はそうではありません。作者もお祝いを機に訪ねて行ったのかも知れません。久しぶりの孫娘との楽しい時間を愛おしむかのように綴った一句に思えて、「おさげ髪」がなおさら印象的です。
入選
夏の句

(評)夏木立は、群がって生い立った樹々の生気盛んな様子を言います。夏木立は、夏季の強い日差しから行人を守るようにやさしい木陰を差しかけてくれます。掲句で詠まれているのは、遍路の持鈴が響かせる真鍮の音でしょう。硬質な鈴音は心を鎮め、旅の疲れに一陣の清涼感を添えます。中七の切れ字「や」の詠嘆を得たことにより、鈴の音が生気の充実した夏木立の一木一木の木霊と響きっ合っているようです。(鎌田俊 評)
格調高い見事な一句に仕上がっています。「真鍮の鈴」と具体的に材質までを詠み込み、青々と茂った木々の間から涼やかに憩いの音色を響かせます。暑い夏の日差しを和ませてくれる鈴の響きが印象的です。「夏木立」の中、歩みを進めるお遍路さんの姿が鮮やかに浮かび上がります。
準大賞

(評)私も若い時のお遍路の一人旅で同じようなことがありました。その光景が昨日のことのように浮かんできます。脇道にそれて、荷物を置いて腰を下ろして海を見ている・・・そんな一時を切り取ったものですね。遠くから太平洋を見ているのではなく、磯の香りや波が寄せたり引いたり、自然の中の自分を感じる一時です。(畠田秀峰安楽寺老師)
二十三番薬王寺から三十八番金剛福寺までの徳島から高知にかけての遍路道は、太平洋に沿うように長い海岸線が弓状に続いています。黒潮の音を聴き、豪快な夏の海を肌で感じることが出来ます。小さな杖の先と広大な太平洋を対比させ、「太平洋に洗う夏」の措辞が、何とも大らかな秀吟を生み出しました。
特選

岸本尚毅(俳人・NHK俳句選者)選
(評)お遍路さんたちが弁当をつかっている場面。車座になっているのだから、それなりの人数でしょう。夏蓬の風情は「たけ高く繁りあひ、風のまにまに葉裏の白く翻りたるもをかし」(『述斉偶筆』。「図説俳句大歳時記」所収)というもの。「夏蓬」は三夏。この句は初夏の作として鑑賞したい。芭蕉に「春雨や蓬をのばす草の道」という句があります。春雨の頃の蓬が、夏の蓬となってさらに草の丈を伸ばしています。遍路の昼餉の様子を詠んだ情景の句として評価します。白い装束と、青々とした蓬の色の対照が美しい。

鹿又英一(蛮の会主宰)選
(評)日本中の観光地において、観光人力車が人気です。観光人力車が始まったのは、平成八年(一九九六)に秋田の観光地、角館の武家屋敷通りだという。この句もどこかの観光地の景でしょう。今、その車夫は、男性ばかりではなく女性もよく見かけるようになりました。さて掲句、その女車夫を取り上げ、焦点を「ねじり鉢巻」に絞ったのが上手い。焦点を絞ることにより景が鮮明になりました。余計なことを言えば言うほど景はぼやける。一点集中は俳句の鉄則です。そして伴奏的に取り合わせた「新樹光」により明るさと軽やかさが生まれました。

鎌田俊(河副主宰)選
(評)気象庁によると2025年の夏の平均気温は統計開始以来最も高かったといいます。熱帯夜を乗り切るには冷房が欠かせなくなりました。掲句では作者が寝ているところなのか、ソファーや椅子に座っているのかは定かではありませんが、後者をイメージしました。冷房でひんやりとしたフローリングに置かれた足元に猫が寄り添いながら、寝返りを打ったのでしょう。足に流れるように当たる猫の毛並がことに涼しく、熱帯夜の作者に安堵をもたらしています。

神野喜美女(HAIKU日本理事長)選
(評)長崎に原爆が投下されたのは1945年8月9日。この日は、犠牲者の霊を慰め平和を祈念する日とされています。長崎忌を言わずして、長崎の空に平和への誓いを込めた深い一句となりました。今日の雲は「洗い晒し」のようだと表現する作者。この色褪せた「夏の雲」が長崎にとって、特別の雲であることを思うと哀しみが込み上げてきます。
秀逸句
(評)まだまだ子どもと思っていた「末つ子」が、男らしくなってきたのを感じての一句。子どもの成長は早いもの。時の流れを肌で感じさせる生活詠は、立夏を表わす「夏立ちぬ」の季語で見事に収まっています。活気に満ちた季節の到来の季語と、すくすくと成長している子どもの姿が響き合う一句。
(評)JR鳴門線沿いには全国有数のレンコンの産地があります。JR鳴門駅から四国一番・霊山寺へと向かう道々に咲いている「蓮の花」。早朝に開き始めた花は満開となった後、昼頃にかけてゆっくりと閉じていきます。「花沿ふ」遍路道は、これから始まる「同行二人」の旅を祝うかのようです。
(評)「草矢」は、茅の葉などを縦に裂き指にはさんで矢のように飛ばすこと。放った「草矢」は勢いよく水に刺さり、その様を「水の厚みに」と表現して、高く舞い上がり落ちて来た臨場感が伝わってきます。「ささりけり」で読者に迫力とスピード感を届け、楽しい場面が蘇ります。
(評)「利尻富士」は、立派な山容を持つ北海道の名山です。「雲の峰」に包まれた名峰を「雲の峰食す」と表現しています。利尻富士と沸き立つ真っ白な雲が思い浮かび、北海道の雄大な自然が眼前に広がります。なだらかな円錐形の利尻富士が、雲の峰の中にそそり立つ景が見事に表現されています。
(評)端居といっても、夕星が見える時間帯です。「廻国者」とは、僧、商人など諸国を廻り歩いている人の総称。この句の場合、巡礼と解するのが素直でしょう。住み慣れた家でくつろぐ端居ではなく旅先です。野宿よりましという程度の寺の軒下のような場所での「端居」かもしれません。「廻国者」なる人物の胸中の旅愁が感じられます。「廻国者」という、古くから使われている言葉のニュアンスを味わいたい作品です。(岸本尚毅 評)
(評)夏の夜は短く、午前4時を過ぎると空が白々と明けてきます。「短夜」の明け行く様を目の前の景として、「旅の杖」を印象的に切り取っています。お遍路さんの宿坊での静寂のひと時を詠み切っており、この杖を頼りに歩むこれから先の遍路旅への不安な心情も垣間見えます。
(評)帰省先の長閑で平和な日常が浮かびます。最近の強盗団のニュースとは無縁の故郷。区切りの法要の日でしょうか。「開けっ放しの仏間」に光りが差し込み、集まった人々の楽しそうな会話さえ浮かんできます。家族が揃い窓や襖を開け放った解放感が、リアリティをもって伝わってきます。
(評)「時計草」は、花の形が時計盤に似ていることからこの名が付きました。蔓を伸ばしながらどんどん広がっていきます。昭和のCMのキャッチフレーズ「二十四時間働けますか」が、新鮮に面白く響きます。こんな働き方は、今はもう許されない時代です。働き方はどうあれ希望に満ちた昔を思い出します。
(評)最期の看取りの一句でしょう。母への想いが溢れています。死期を悟ったような哀しみが、淡々と綴られています。母と子の別れを、対照的に勢いのある季語「夏の雲」と対比させた秀でた俳句です。
(評)「一山」という大景から、「一寺」という現実の目の前のお寺へと鳴きしきる蝉を捉えた作品。大から小に引き寄せる俳句の骨法にかなっています。四国八十八か所の札所には、急峻な山岳霊場も少なくありません。夏の厳しい巡礼を想像させ、境涯俳句にも通じる作者の感性が冴えた一句です。
(評)上五から中七の措辞により、対象は女性であることが分かります。余計な説明報告をせずに読者に分からせるのが俳句。俳句は「言わないで言う」文芸です。もっと言いたいと思ったらその一歩手前で思いとどまる。思いとどまった部分は必ず十七音の行間ににじみ出るのです。さらにこの句の上手いのは「換喩」を使ったことです。概念の隣接性、近接性に基づいて語句の意味を拡張するのです。「サングラス」と書いたが、これは「サングラスを掛けた人」という意味。省略を旨とする俳句においては、必須の技です。(鹿又英一 評)
(評)「髪洗ふ」は夏の季語で、汗をかく夏は必要に迫られ頻繁に髪を洗います。“自分の身体じゃないみたい”と感じることが時にあるらしく、大抵は“思うように動かない”といった不調を知らせるサインのようなものです。右手がいつもと違う感覚で、作者の不安げな表情も見て取れます。右手の微妙な変化を「やや他人」と詠んだ独特の表現に脱帽です。
(評)「遍路笠」も旅を重ねて、雨に降られ陽にも当たって茶色っぽく焼けてきたのでしょう。笠の色だけに絞って、「色濃くなりて」の中七が深みと余情を感じさせます。「蝉時雨」の頃の太陽の過酷さが伝わってきます。「遍路笠」と「蝉時雨」との取り合わせで、遍路旅の苦労が偲ばれる重厚な一句です。
入選
秋の句

(評)句形は句の途中に切れ目のない一句一章であり、雁の渡る姿のみを詠んだ一物仕立て。季語「雁渡る」はカモ科の大形の鳥「雁」が越冬のため北方から日本に渡ってくる姿を言います。向かう先は「伴天連の墓」だと言い切る作者。伴天連とはキリスト教の宣教師のことで、ポルトガル語の「PADRE(パードレ)」である宣教師・神父に由来する言葉です。上五中七を作者の行動と捉え、「雁渡る」との取り合わせである二句一章句と捉えることもできますが、やはりここは “雁が列を組んで目指すのは伴天連の墓”だとする、「雁」に明確な意思を持たせて鑑賞する方が迫力ある句となります。一句の中には戦国時代、信長に始まり秀吉の “バテレン追放令”に終わった日本のキリスト教の歴史が詠み込まれています。(神野喜美女 評)
準大賞

(評)秋のお遍路の醍醐味の一つは紅葉狩りです。紅葉を楽しむと共に紅葉谷となった沢音が聞こえてきます。「しばらくは」という言葉から紅葉狩りをゆっくり楽しむ様子が目に浮かびます。山岳の札所、海洋の札所は格別ですが、安楽寺のような平野でも本堂の横の大銀杏が黄色くなり、多宝塔のまわりのもみぢが真っ赤に色づきます。山門を入って、庭園の谷に沿って、参道を歩くおへんろさんの目を楽しませています。(畠田秀峰安楽寺老師)
秋の紅葉に人は心を奪われてしまいます。美しい峠道などを歩むお遍路さんを思い浮かばせ、深い郷愁を覚える秀吟となっています。谷川に沿う散策での一句か、澄んだ水が美しい音色を奏で清涼感を伝えてくれます。「しばらくは」と詠むことで様々なシチュエーションが浮かび上がり、省略の上手さが際立っています。
特選

岸本尚毅選
(評)前に進んだり、二歩三歩うしろに下がったり。前後しながら少しずつ進む「盆踊り」の足どりを詠んでいます。上五の「行きつ戻りつ」は七音ですが、句全体のリズムが良いので字余りは気になりません。暗い中、下駄と下駄を履いた足が白々と見えるのは盆踊らしい風情。足をあげたときに下駄の裏側が白々と見えるとの鑑賞も可能でしょう。盆踊そのものを一元的に詠んだ句であり、詠み古された事柄ですが、描写の巧みさによって新鮮な作となりました。

鹿又英一(蛮の会主宰)選
(評)秋の収穫あとの祭などで、村人が集まって歌舞伎や狂言などを演ずる風景は、昔から日本各地で見られたものです。娯楽の少なかった農山村などでは、皆に待たれた楽しみの行事でした。今でもその伝統を守り、代々受け継いでいる地域は少なくありません。さて掲句、「謡」といっています。「謡」は、物語の山場で観客を引き込む重要な役割を果たします。この句の上五から中七の臨場感がすばらしい。俳句で人間を書くのは、その人間のありよう(ザイン)を書きます。十七音の中で、人間が厳然と存在している俳句は本物です。

鎌田俊(河副主宰)選
(評)鋸の歯を切れ味するどく研ぎ上げることを、目立てと言います。日頃から工具の手入れを自分で行っているのでしょう。木材を切断するのに鋸の目立てをしながら、頭の中では作業の段取りを確認しています。木材に丁寧に目印をつけて鋸を引けば、木屑が水しぶきのように溢れてきます。木材を切り進む鋸の切断力が心地よく、切断箇所からは木屑とともに木材の匂いが漂ってきます。爽やかな秋の日和との取り合わせにより、手際よく作業がはかどっている場面が想像されます。

神野喜美女(HAIKU日本理事長)選
(評)「青北風」は初秋から仲秋にかけて、晴天の日に北から吹くやや強い季節風のことを言います。空や海が青く澄むような北風を指し、夏との別れの風でもあります。墓石が捨てられている場面は何とも侘しいものですが、最近は墓じまいの言葉もよく聞くようになってきました。少子化の現代では仕方のない事かもしれません。考えさせられる味わい深い一句です。
秀逸句
(評)「鋳物師」とは鍋や釜などの生活用具や農耕具を作る人のことです。その作業場を「火の仕事場」と詠むことで、緊張感が伝わってきます。一年中絶え間ない熱さの中にも一瞬爽やかな風が吹き、ようやく訪れた“秋”を感じて安堵したであろう様が見て取れます。ひとときの涼風を感じている鋳物師の顔が浮かんできそうな作品です。
(評)後れ毛を風がやさしく吹き抜けたのでしょう。「色なき風」とは秋風のことで素風ともいいます。作者は、ただ風に吹かれたというのではなく、「色なき風」に人格や意志があり、自分の後れ毛を櫛で梳いてくれるように労わり、そっと「聲」を掛けてくれたと感じたようです。秋には彼岸があり、生者が死者の気配をいつにもまして感じられる季節です。作者もきっと「色なき風」に祖母や母親の気配を重ね合わせているのかもしれません。(鎌田 俊 評)
(評)遍路に出ること自体が世俗を捨てることを意味すると思うのですが、そのうえで「捨てる物無くなり」と詠みました。遍路を続けているうち、何もかも捨ててしまってこれ以上捨てる物が無い心境に至ったのでしょうか。そのような人物が、何もすることがなく、ただ眠っている。そこに一抹の可笑しみと淋しみを感じます。単に遍路といえば春ですが、何もかも放り出したような遍路に関しては、案外「秋遍路」が似合っているような気もします。(岸本尚毅 評)
(評)全行程千キロを越える一人旅。遍路の旅は孤独の旅でもあり、何度も襲ってくる孤独感と闘わざるを得ません。孤独の中で鈴の音を聞く度に、癒しと励ましで支えられている作者の心の内が、句に素直に表現されています。
(評)「秋時雨」は冬に近づき降ったり止んだりする、にわか雨のことです。「秋時雨」と取り合わせたのが「犬と嫁」。意外な取り合わせに思えますが、まさにこれこそが粋な作者の発想でしょう。独特の言い回しが心に残ります。「もう帰ろうや」と促す作者と、“すぐに止むわよ”と散歩を続けたい「犬と嫁」の会話が聞こえてきそうです。
(評)花火は夏の季語とされたり、お盆の行事として秋の季語とされたりします。「うたかた」は消えやすく、儚いものの意で用いられます。「遠花火」を見ながら消え去った恋を振り返ったのか、長い人生の中の淡いほろ苦さを思い出したのでしょう。花火より「遠花火」とした方が「うたかたの恋」の心情が表現され、読み手にも自分の事として思い出させます。
(評)現代の話し言葉で詠んだ口語体の一句。措辞は眼の前に広がる「芒原」に語り掛けているかのようです。「芒原」はススキが生い茂る野原のことで、銀色に輝く芒原の景は美しく、風が吹くと大きく波打ちます。大人の背丈ほどに伸びたススキの波に、自分の心の内を語ったように思えます。自分の心が淋しい時、そのさざ波のような風音は優しい言葉に聞こえてきたのでしょう。
(評)無駄がなく、「秋晴れや」で作者の清々しい心持ちが十二分に伝わってきます。簡単そうに思えて難しいのが何気ない生活詠の一句です。すべて上手くいった検診日のホッとした気持ちが伝わり、読者側まで嬉しくなってきます。「秋晴れ」が爽やかな作者の心境を物語っています。
(評)新小豆とは、その年に収穫されたばかりの小豆のことです。収穫した小豆を鞘のまま乾燥させ、足で鞘を割ると中から小豆が出て来ます。それを風選機で選別したものをゴザの上でさらに乾燥させて、ついでに虫干しをして虫食いやカビなどの所謂クズ豆をはじく。これを「豆選り」と言います。掲句、その豆選りを「禽(とり)の目」になってやるというもの。実に的確な比喩です。これは「擬物化」という比喩表現で、擬人化の反対概念。擬人化の俳句は山ほどありますが、擬物化の俳句は少なく、この句は成功でしょう。(鹿又英一 評)
(評)一年を通してさまざまなバリエーションで食卓を彩る豆腐。俳句においても春は「田楽豆腐」、夏は「冷奴」、秋は「新豆腐」、冬は「湯豆腐」「凍豆腐(しみどうふ)」と春夏秋冬の季語があり、如何に親しまれた食べ物かがよく分かります。「新豆腐」は新しく収穫した大豆で作った豆腐のことで、この時期でしか食べられない豊かな風味を楽しめます。「山水で」の措辞によって一軒の豆腐屋の佇まいや美しい紅葉など、山峡ののどかな秋の景が浮かび上がります。冷やされた新豆腐の旨みがしっかりと伝わってくる秀句。
(評)「つくばい」は、茶室に入る前の路地に据えられた手水鉢のこと。ひらがな表記が「秋あかね」に似合っています。今は茶室に限らず、和風庭園の造形物として見掛けることもあります。離れては、また柄杓へと戻ってきた「秋あかね」の、人を怖がらない可愛い様子が窺えます。何気ない景が、苔生しているだろう「つくばい」の石と共に風情を感じさせてくれます。
(評)「黒潮」は東シナ海から北上して太平洋に入り、日本の南岸を流れる流れの速い暖流です。土佐の遍路では太平洋を間近で見られることもあり、雄大な自然を満喫することが出来ます。遠くに「黒潮の声」を聞きながら太平洋沿いを歩く、自然と一体になって旅する作者の充足感が伝わってきます。
(評)四国遍路は修行の道と言われます。人生に迷いながらも、本当の自分を見つけるための旅なのです。そんな旅の途中の「蟋蟀(こおろぎ)」の鳴き声は、さぞや癒されたことでしょう。鳴き声を「うた」と詠み「子守唄」を聞くかのように感じたひとときは、風情ある秋の夜となったようです。
入選
冬の句

(評)安楽寺は宿坊のあるお寺なので、この句が心に留まりました。杖に鈴が付いているのですね。宿坊の玄関前で杖を洗って、杖を納めて、鈴の音が止まる・・・。お遍路さんお疲れ様、と声を掛けたくなります。(畠田秀峰安楽寺老師)
やれやれ、やっと着いたという安堵感が伝わってきます。季語を「冬の暮れ」としたことで、冬の短い日の暮れていく少し寂しげな様を思わせます。「止みて」と詠んでいるので参拝者である作者が宿に到着したのではなく、参拝者を待つ宿坊の方なのかも知れません。忙しい仕事の中にも参拝者の到着を気に掛ける優しさ、また無事に宿坊に辿り着いた人を労う気持ちも見えてきます。心境を詠まず、ただ状況を詠んだ句だからこそ、心の内が句を通して伝わってきます。
準大賞

(評)なんとも心に沁みる一句です。誰しもが経験してきたであろう哀しみを、“哀しみ”の言葉を使わず、気持ちが伝わるように詠んだ作品に切なさを感じます。寒中の星空は、とても美しいものです。「また会わん」の措辞が、作者の心の暖かさを身に沁みて感じさせます。愛する家族を残して若くして亡くなった、その人柄で誰からも愛されていた坂本九さん。「見上げてごらん夜の星を・・・」と歌い出す歌を重ねてしまいます。「会わん」の余韻を感じながら、抱きしめたいような一句です。
特選

岸本尚毅選
(評)「まっすぐな手術痕なり春隣」であれば、一人で自分の身の手術痕を見ていることになります。いっぽう「手術痕だね」とあると、誰かそばにいて、自分(あるいは相手)の手術痕を見ている場面が想像されます。たとえば腹などにある手術痕を一緒に見るのだから、親しい関係(おそらくは家族)であろうことが読み取れます。手術痕が「まっすぐ」であることに特段の意味はありません。「手術痕がまっすぐだ」という他愛ないことを話している、その安らぎを感じ取ればよいのではないでしょうか。「春隣」に、治癒・回復への望みが託されています。

鹿又英一(蛮の会主宰)選
(評)御朱印は、平安時代に起源がある宗教文化で、写経したお経を寺院に奉納した際に寺院から授与される「納経印」が始まりです。江戸時代になり、寺院の賑いに影響され、神社でも「御朱印」が授与されるようになりました。現代では、意匠をこらした御朱印も増え、御朱印巡りが人気を集めています。掲句は、どこかの社寺でのいただいた御朱印に感激していることが中七の措辞で分かります。余計な説明をしないで読者に感じさせるのが俳句。そして、添加的に取り合わせた「石蕗の花」の相乗性も見逃せません。

鎌田俊(河副主宰)選
(評)満月が上ってきてちょうど枯木立の先に飾り付けられたように作者からは見えたのでしょう。凩に吹かれて木の葉を落とし始めて、今ではすっかり裸木となってしまいました。満月を背景に、木立の枝のひとつひとつがくっきりと見えているのかもしれません。「引つかけて」という措辞からは、木立が鋭く、円形の月面へささくれ立っている様が伝わってきます。天心の満月を戴いたことで、荒涼とした枯木立のイメージが一変して絵本のように明るく楽しい景に様変わりしました。作者の表現のマジックですね。

神野喜美女(HAIKU日本理事長)選
(評)「冬木の芽」は、冬の間、寒さから身を守るため固い鱗片葉で覆われた芽のことです。冬にはすっかり葉を落とし休眠している落葉樹ですが、新芽は晩夏から秋に生じ、春の芽吹きの準備をします。冬のひと日、作者の目に飛び込んできたのは色鮮やかなサリー。細長い一枚の布で体を包むように纏うサリーは、インドを始めとする南アジアの女性が着る伝統的な衣装として知られていますが、作者が目にしたのは僧侶が身に着ける黄色やオレンジ色のサリーだったのでしょう。冬の乾ききった空気や枯色の景にあって、サリーの色が鮮やかに浮かび上がります。俳句は世界で最も短い定型詩です。名詞と助詞のみで詠んだ味わい深い一句。十七音で表現する幾通りもの詠みの中から最適なものを選び抜いた一句は、簡潔にして奥深く、音の響きもまた静かな余韻を生み出しています。
秀逸句
(評)「煙の上がる方へ人」から、以下のようなことが読み取れます。いくぶん離れたところに大規模な「とんど焼き」が行われている。煙がもうもうと上がっている。訪れた人は、煙を目あてに、その煙の上がる方に向って、ぞろぞろと歩いてゆく。浜辺とか河原とか、そこが広々とした場所であることも想像されます。(岸本尚毅 評)
(評)作者のやるせない心境が、泣くようにも聞こえる季語「虎落笛(もがりぶえ)」に託されています。「虎落」は竹を組み、縄で縛って作った柵や垣根のことです。そこに冬の烈風が当たり、笛のような音を発することを虎落笛といいます。その音は、妻を失った人の嗚咽なのだと詠む作者。虎落笛の比喩として誰もが納得するのは、それが机上での詠みではなく、写実からくる生々しさからでしょう。
(評)「ガンダム」とは、「ガンダムシリーズ」に登場する架空の有人操縦式の人型機動兵器です。初出は、一九七九年放送のテレビアニメ「機動戦士ガンダム」。「ガンダム」は、映像作品だけでなく、ゲーム、グッズ、イベントなど多岐にわたるビジネスが展開されていて、特にプラモデルの「ガンプラ」は大人気です。掲句、そのガンプラが床の間にあるという、意外性ある景を切り取ったことが手柄。そして中七を「や」でしっかり切ったことにより、景に広がりと奥行きが出て、大きい冬座敷であることがわかります。(鹿又英一 評)
(評)「雪折」は降り積もった雪の重さに耐えかね、枝や幹が折れること。またはその折れたものをいいます。冬でも葉の残っている松や杉などは雪が積もりやすく、折れることがよくあります。掲句、リフレインを用いることで雪折の激しさがよく伝わってきました。動詞「さそふ」が非常に巧く使われています。切り取られた景を「深山かな」と結び、重厚な一句となっています。
(評)敢えて「病人として」と詠むことで、今の自分の置かれている身を客観的に詠んでいます。上五「浅し」の終止形、下五「食ぶ」の終止形の、二つの強い切れがあるため印象的な一句です。快方に向かう身体を労るかのように、粥をかき混ぜゆっくりと口に運ぶ作者の安堵した横顔が見えてきます。
(評)作者の思い切った挑戦の一句が見事に命中した作です。七音、十一音の破調句ながら、人情味あふれるリズミカルな作品となっています。一年中売られているのに、寒くなると妙に恋しくなるのが鯛焼き。せっかく店まで来たのに、素っ気ない完売の札が「ぶらり」と下がっていた様子。「ぶらり」がその空しさを表しています。
(評)神楽とは神を祀るために神前で奏される舞楽のことです。神楽のおりに歌われる歌謡を「神楽唄」と言います。「紅型(びんがた)」は、鮮やかで大胆な配色が特徴の沖縄を代表する染物のことです。沖縄と言わず沖縄を示し、「島には島の」と地域性を更に強調し、下五へと繋げた所など作者の巧さが際立つ秀句です。
(評)「ハザード」は、自動車の非常点滅表示灯「ハザードランプ」のこと。後続車に渋滞を点滅で知らせ、注意を促します。家路を急ぐ「クリスマス」の日。雨の日の渋滞で、特別なイベントが遠のきます。連なっているハザードランプを見つめる作者の焦る気持ちや、どうしようもないという諦めの感情が表れています。
(評)「雪嶺」は山の上部に雪を頂いている嶺のことです。夜空に光る星の中に「兄」を探しているのか、兄を想う純真な心が詠み込まれています。冷え込んだ夜空に探す、星となった兄もまた山を愛する人だったのかも知れません。兄が見守ってくれていると思うと、心強く穏やかな気持ちになる事でしょう。兄弟の深い情愛が感じ取れます。
(評)「初旅」は新年になって初めて旅をすることです。日常的な行動も新年になって初めて行われている時には、「初」を付け新年の季語になるものも多くあります。「辺路山路(へじやまじ)」は、海辺や山中を修行しながら歩く道です。一番札所・霊山寺のある阿波の国から、遍路旅が始まります。「辺路山路」と簡潔に詠むことで、険しい道のりが窺えます。
(評)「木守柿」は収穫の後、一つだけ木に残っている柿の実のことです。小鳥たちのために残しておく、或いは翌年にもよく実がなるようにとのまじないだとも言われています。冬の乾燥した天気の良い空に、雲ひとつなく吸い込まれそうな「蒼天」なることがあります。そんな蒼天の中、くっきりと「木守柿」が浮いているように見えて、清々しい気分で大地を感じたのでしょう。本格的な冬を迎える前には穏やかな日も多く、空との対比も美しいこの時期ならではの郷愁を誘う景です。
(評)選手とコーチの真剣そのものの一場面。なんとか伸び代を探そうと目を光らせるコーチの真剣さが伝わってきます。寒さの中、「白息」を吐きながら懸命にスポーツに励む選手たちの様子や、その様子を見つめているコーチの厳しいながらも愛のある指導が窺い知れます。「白息」が表す周りの冷たい空気感が、練習の熱気と臨場感を伝えています。
(評)下五のインパクトある措辞が印象的な一句です。言い放った言葉は、読者に次々と疑問を起こさせるほど鮮烈に響きます。俳句には主観を入れて詠むことを良しとしない考えもありますが、この句の「綺麗な」は、一行詩という俳句の形において重要な役割を果たしています。季語の「冬はじめ」は、新しい季節の始まりの期待と新鮮さを感じさせ、「鳥の死」と取り合わせたところに斬新さのある秀作です。
入選

(評)「春灯や」とあるのは、昼も灯をともした堂の中の景と解します。「お大師さまの息遣い」は、目の前にある弘法大師の彫像や画像を通して、お大師さまの存在を身近に感じたと解すればよいのでしょう。高野山では今でも、奥之院に居られる空海上人に日に三度の食事を届けるという。お大師さまは生きておられるのです。この句から、そんなことも連想しました。句の中で「息遣い」という生々しい言葉がよく効いています。「春灯」の持つ柔らかく、仄暗い雰囲気も一句の背景となっています。(岸本尚毅 評)