HAIKU日本2022冬の句大賞
特選
(評)ダンスの優雅さと真剣さの中に、一人の女性の存在がくっきりと浮かび上がります。「寒紅」は寒中に紅花から作られた紅。俳句では寒中に口紅をさすことも言います。凜とした風情を醸し出す冬なればこその彩りがあり、「ダンスパートナー」に対する憧れや尊敬の眼差しが感じられます。「微笑み」によってピリピリとした感覚ではなく、優しさや柔らかさも感じ取ることができます。
(評)ふるさとの夜空に冴え冴えとかかる星たちは、冬の容赦ない寒風に晒されています。その輝きに親しみを込めて「洗い晒し」と詠みました。キラキラとした特別な夜空ではなく、いつも通りの見慣れた夜空。目立たず少し色褪せたようにさえ感じる「冬銀河」です。「洗い晒し」の措辞が絶妙で、上五と下五の両方の名詞に掛かっており、スケールの大きい漆黒の空間を詩情豊かに表現した作品です。
準特選
(評)かつては町中や野山や浜でも、焚火の周りに人が集まり、暖を取り話に興じました。最近はなかなか焚火をする場所も見つかりませんが、キャンプブームもあってその魅力が復活しています。火を見つめつつ思い起こすのは在りし日の自分。楽しかった思い出と共に、悔いることも増えてきます。「悔い多く」と言いながら、何処かさわやかさの漂う一句です。焚火を見つめる作者の心情が強く炙り出され読者の共感を誘います。
(評)冬至を過ぎると、一日ごとに日が長くなります。日脚が伸び春の足音を感じますが、現実は寒の盛り。「セイロンティー」はスリランカで生産される紅茶で、セイロンは旧国名です。スリランカの山間地域の標高によって、風味も異なり個性豊かな味わいを楽しめるそうです。「セイロンティー」に懐かしい茶葉の香りと昭和の香りが漂います。静かに春を待つ心境が句に込められています。
(評)冬の夜空はいくつもの一等星が輝き、とても華やかです。その中でも、三つ星を中心に均整の取れたオリオン座は雄大です。ギリシャ神話の美しき狩人オリオンが、天に上げられた姿だと言われています。作者は星になったオリオンの哀しい光を「哀輝あふれて」と叙情たっぷりに詠んでいます。「吾ひとり」が味わい深く、大自然の大らかな活力の中に立つと、己れの矮小さに気付かされます。
秀逸句
(評)「弓始」の清々しさが感じられます。年初に神社で行われる弓の神事や、弓道場での初稽古での射手の姿を見ての一句。「直立」と詠むことで静寂が流れ、弓を引く音、矢の音、射抜く音が読者に届くようです。礼節を重んじる日本伝統の弓道の緊張感が伝わってきます。武芸の道は、世情の嫌なことをも忘れさせてくれるものでしょう。
(評)寒風が吹き込んでくるのを防ぐため、窓に目貼りをすることを「北窓を塞ぐ」と言います。日本海側で吹いた強い季節風が、山脈を越えて太平洋側に吹き降ろしてくる上州名物の空っ風が“赤城おろし”です。「赤城」の固有名詞を入れることで作者の安堵した心境が際立ち、自然と対峙する知恵と苦労が読者の胸に届きます。
(評)「荒事」は歌舞伎で、怪力勇猛の武人や鬼神などによる荒々しく誇張した演技や演出のことです。顔に隈取をし、大胆な扮装や動きとなります。初代市川團十郎が創始し、当代までお家芸として受け継がれています。「目玉」とは睨み。思わず声がかかる見せ場で、誰もが芝居に心酔する様を十七音で見事に表現して見せた一句です。その迫力と豪傑ぶりに沸く「初芝居」の様子が伝わります。
(評)「寒凪」は、寒さの冴え渡った時の凪です。「枯山水」との取り合わせが意表を突いて絶妙です。以下、作者の解説です。「この枯山水は私の人生です。そこに居る私自身も枯山水と一体となっていることに気付きます。その少しばかりの陽によって、さらに前に進む気持ちになりました。」一条の光は、作者の心を奮い立たせるかのように、活路と希望を与えてくれたのでしょう。
(評)「斥候」は、敵の状況を探るために本隊が差し向ける単独兵または少人数の部隊のこと。詠み手は、水面に浮かぶ群れを「鴨の陣」とし何気に飛び立つ一羽を「斥候」に例え、敵陣に備えたかのごとくの俳句としました。鴨の姿を戦国武将の勇ましさで詠んだセンスに感服です。一読明快で大自然の厳しさも伝えています。
(評)「葉牡丹」は、その葉が牡丹を思わせるアブラナ科の多年草で、生け花では正月を彩る迎春の花でもあります。花の少ない冬に華やかさを添え重宝されています。その影を虚ろに感じるのは、真昼と言いながらも冬の日差しの弱さのせいでしょうか。愛らしい豪華さの中にも、そこはかとない寂しさを漂わせる一句です。
(評)「マスク」のリフレインが小気味よく響き、今の世の中の生活感や人情までも伝えています。パンデミックも二年も経てば、日本中がマスク姿にすっかり馴染んでいます。マスクはしていても体の自由は利き、お辞儀くらいはしてもいいのだけれど、「目礼す」となってしまいます。慣れたとはいえ、顔の半分を隠して生活する世の中はやはり奇妙です。冷ややかな目線の時事俳句としての切り口で、今を詠んだ秀句となっています。
(評)「衣衣」は“きぬぎぬ”と読み、共寝をした男女が翌朝めいめいの着物を着て別れること。「依依恋恋(いいれんれん)」は恋い慕うあまり離れるに忍びない様です。「衣衣の雪」の繊細な言葉は作者の心細さを表わし、リフレインを駆使した音律の調べによって優美な作品となっています。その音の響きは細雪のような儚さを思わせます。重ね言葉を多く使ってオリジナリティを高めた見事な作品。
(評)冬籠と相まってコロナ禍の今、「鸚鵡(おうむ)」を相手に教える現状に悲哀も感じられます。余程、利口な「鸚鵡」なのでしょう。人の言葉を真似ることさえ驚きだった鸚鵡ですが、最近はもっと利口になり、飼い主の家族それぞれの声色まで真似ることもあるそうです。「冬籠」の季語もしみじみと感じられ、ペーソスのある措辞に一層孤独感が漂います。
(評)作者の住まいからは東方に位置する湘南の海。“太陽族”と呼ばれた若者や、街の名を歌詞に織り込んだサウンドが一世を風靡しました。「初茜」は元日、初日の昇る寸前の空が茜色に染まっていくことを言います。あらゆるものを省略して地名のみを並べた措辞が、この地で見た初日の出の感動を物語っています。夢や希望を抱いていた若かりし頃を思い出したのかもしれません。
(評)「読初(よみぞめ)」は新年に初めて読書を行うことです。『俳句文法心得帖』は中岡毅雄氏の著書です。初心者にも分かりやすい詳細かつ丁寧な優れもので、文法書の中でも人気だと言います。作者の俳句熱の高まりが窺えます。季語「読初」と措辞の固有名詞を繋ぐのはたった一音の格助詞「に」。この一音が一句の中で大きな働きをし、勉強熱心な作者がのどかに過ごす正月の景を伝えています。
(評)妙味ある一句一章句。背中を抜けていく靴音が粋で哀愁を感じさせます。下五の止めが絶品で、男のロマンを読者に与えてくれます。冷え切った路地裏に響くのは己が靴音のみ。句の最後に置いた「寒し」は、作者のポツリとこぼした言葉のように読者の耳にいつまでも離れず残ります。
(評)形容詞に終助詞をやさしく置いた「ゆたけしよ」の響きが、詩心を誘い余韻のある秀吟。燈も季節によって趣が異なると捉えるのが日本人の繊細さです。月が冴え、星が冴えるように冬の燈もまた冷たく光る夜。その灯りの下の静かなる時を「ゆたけしよ」と詠み、誰にも邪魔されることのない一人の時間をゆったりと詩歌に遊ぶ作者が想像されます。
(評)元日は主婦を休ませるため、二日に初めて風呂を立てて入ることを「初湯」と言います。我が身への労いを込めて詠んだ一句。「透きとほりたる」の中七の措辞に、新年を迎えた喜びをしみじみと味わう作者の心が見えてきます。生を受けてから何十回と巡ってきた年の節目。先人から受け継いできた暮らしの中の細やかなしきたりが、日本には存在し人々の心を潤しています。
(評)俳句の基本通り、心情を季語「冬菫」に託した一句。冬枯れの中、菫の花が小さいながらも胸が躍るほど輝いて見えます。充分な温もりもない日差しに懸命に咲く花の姿を、「母の微笑」に取り合わせました。作者の注ぐ眼差しに愛情が溢れます。しとやかさと気品の漂う母の微笑と、優しさに満ちた母の姿が描かれています。
(評)ソクラテスはギリシャの哲人。梟は西洋では賢者の鳥と称され、知恵あるものとして扱われています。終止形「見あぐ」と詠んで中句との間に切れを入れ、倒置法を使って梟の動作を強くアピールしています。梟を哲学の祖に見立て、ソクラテスの容姿風貌を思い起こさせるという大胆な発想が光ります。
(評)「三浦」はマグロ漁の拠点であり大根でも有名。「干大根」は、海辺に近い大根畑や砂浜で鉄パイプなどに数日間、潮風に当て大根を掛けておく三浦海岸の冬の風物詩。風で水分も抜けやすく、凍りにくいこの地の気候が最適です。切干にして煮たり酢の物にしたりして、その味は絶品です。「波音近き」が情景を容易に想像させてくれ、初冬の旅の充実ぶりを窺わせる一句となっています。
(評)「梅」「梅見」は春の季語ですが「梅探る」は冬。早咲きの梅を訪ね山野を歩くことを言います。菅公は菅原道真。太宰府に流された道真のもとに、道真を慕った梅は一夜のうちに飛んできたというのが“飛梅伝説”。その菅公との探梅は何とも贅沢です。四国巡礼の「同行二人」の言葉を入れて詠んだことで、俳諧味も感じられます。菅公の梅への想いを重ねた一句は読者を魅了するに充分です。
(評)歳末は一年の内、最も忙しく慌ただしさの中にも活気があります。「夜汽車」という言葉が懐かしく響く一句。下五の「枕元」が俄然生きています。正月を静かな場所で迎えようとやってきたのか、旅の夜の風情を感じさせます。世の喧騒から逃れた趣のある俳句となっています。
(評)雪の降り止んだ朝は、快晴無風の日が多いものです。目の前に広がるのは、きっと雪に太陽の光が乱反射して眩いほどの景色でしょう。作者は白銀の世界と青空を詠まず、ただ行動を示して肌で感じる風や、街の静けさ、白銀と青空のコントラストを読者に伝えています。360度という数詞がこの句を活かしていて、心地よい一句となっています。
(評)「極月」は陰暦十二月の異称で、今の陽暦でも同じように十二月に使われます。押し迫ったという季節感を色濃く含んでいます。作者は左右の指紋が違うことに、句の眼目を置きました。年の瀬に指紋を見つめながら、一年間しっかりと働いてくれた我が身を振り返っているのかもしれません。類想のない鋭い切り口の句となっています。
(評)生活詠の魅力は、行住坐臥の中から詩情を発見することと言えます。芭蕉は「日常の卑近の世界に目を向けるなら、俳境は限りなし」と言われました。まさに、作者は身近なありふれた光景を詠んでいます。オムライスを食べる二人の間の何気ない会話が、その場の雰囲気を生き生きと伝えていて、日常の光景が印象的に浮かびます。
(評)楽しかった初旅の終わりに、心も体も普段通りに戻ったのか、いつものカップ麺をコンビニで買った様子。何でもないように思える一句は、そこはかとない寂しさを伴います。カップ麺を啜るその哀愁のある姿に読者は惹かれます。「初旅」以外には行先も手段も何も示さず、ただ旅の果ての姿のみを見せる作者。充実した旅であった分、現実に引き戻されていきます。
(評)「白寿」は百の文字から一を取れば白となるところから、99歳のことを言います。「始まりぬ」と、人生の旅が始まるのだと言い切ったところがこの句の良さで、強意完了の助動詞「ぬ」がよく効いています。一生の内には節目があります。今年、卒寿の年を迎え、白寿への道を歩みだした作者。その気概に満ちた姿と淑気ある「年新た」が響き合い、人生の重みをひしと感じさせます。
(評)「寒北斗」は、冬の空に輝く柄杓の形に見える北斗七星のこと。約100光年離れた遠さにあります。その遠さは、現実の人生との対比で感慨深いものがあります。果てしなく広がる天上を「虚空の天」と詠み、三音の助詞を除いてはすべて漢字で詠んだ句の硬さが、寒さで引き締まる身の感覚や煌めく星の鋭さを言い表しています。掲句は、カ行が小気味よいリズムを生み出し、風格のある作品に仕上がっています。
(評)「福寿草」は、新年の季語で正月を飾る縁起の良い花とされています。コロナ禍の中、感染拡大の懸念を抱えては年始の挨拶も儘ならないのが現状。「束の間」にはそうした世情がよく表れています。訪れる方も迎える方も心の隅にある心配事を拭うことはできません。早々に切り上げ通常なら帰った後の寂しさも感じられる一句ですが、黄金色の「福寿草」との取り合わせで明るい気分にさせてくれています。
(評)誰かが発した言葉が一瞬の内に、その場の雰囲気を変えてしまうことがたまにあります。言った本人に悪気があっての事ではないのだけれど、その時の様子を象徴させたのが「凍蝶」です。冬まで生きながらえてきて、寒さで凍ったように動かない蝶の様子。女性の激しい感情の起伏を見る思いの衝撃的な一句となっています。素敵な言葉が溢れると「凍蝶」も温もりを取り戻し飛ぶことができるのでしょうか。
佳作
(評)自動車のタイヤを冬用のものに交換する場面でしょう。降雪量や路面の凍結状況は地域によって異なるので、タイヤ交換をせずノーマルタイヤで一年を過ごす所もあるでしょう。掲句で注目したのは、「子に頼む」という上五です。ここから想起したのは、これまで作者は自分でタイヤ交換をしていたが、今冬からは子に頼まざるを得ない事情が生じたのではないかということです。私の周りでは、年波による体力的なことで、タイヤ交換は業者に頼むようになったという方もいます。これまで自分でできたことを子に任せるようになったという感慨が、下五に据えられた「冬日和」の青空を通して、私の胸内にも晴れやかに、そして切なく響いてくるのでした。