HAIKU日本2022春の句大賞
特選
(評)萌え出でて青む若々しい芝生からは、春の歓喜の声が聞こえてきそうです。そんな「若芝」に群青色の影を落としていたのか、自分の感じたままを素直に詠んで、印象的な一句に仕上がりました。「群青の」と影に黒以外の色を付けて詠んだ着眼点が光ります。枯れた芝の間から緑の芽が伸び始める春。その上を歩くのさえ頼りなく見える若芝の広がる中で、春を謳歌する作者の姿が浮かびます。
(評)秋に蒔いた種が発芽した後、春の茎立ちまでの間に、麦の生育に欠かせない作業が「麦踏み」です。根の張りをよくし、倒れるのを防ぎ、株を多く出させるなどの効果があります。晩秋から初春にかけての作業ですが季語は春です。掲句は切字の「や」ではなく格助詞「で」で下五へと繋ぐ一句一章の句。早春のまだ寒い中、逆さ言葉を言いながら丹念に踏み固めている景は、何とも日本的な平和な日常を浮かび上がらせています。
準特選
(評)春の情趣がたっぷりと詠み込まれた一句。川の流れに任せゆったりと形を変えながら進んでいく「花筏」。豪華絢爛たる姿や優雅さに酔いしれた桜も、やがて落花を迎えます。桜吹雪は儚くも美しく、いつまでも見飽きることがありません。水面に揺れながら浮かぶ花筏は桜の最終章です。「揺れ」のリフレインが、水面を漂う花びらの寄る辺なき身を表わしているかのようです。
(評)「春立つ」と言っても、実際にはこの日以降もまだ寒い日が続きますが、今日から春なのだと思うと気配が和らぎ、春を味わってみたい気分にさせられます。陽は柔らかく感じられ、いつも座っている座椅子の向きを日差しの方へ変えたとのこと。ただ、それだけのことですが、この句は季語と切れ字が決まって、優しくて楽しい庶民の詩となりました。春を心待ちにしていた作者の心境を、一つの行動で表現して見せた一句。ベテランの味が滲む作品です。
(評)受験生のいる家庭は、家中が緊張感の中で暮らしているようなところがあるのでしょう。家族全員が健康管理に最善を尽くし、言葉掛けひとつにも注意を払います。「受験子」に対する家族のさり気ない優しさが伝わってきます。中七の「一番風呂」が効果的で、結句の「けり」で綺麗に仕立て上げた一句一章句です。家族愛の感じられる温もりのある作品です。
秀逸句
(評)「理科室」の言葉で、学校内のこと、それも小学校であることが想像できます。「蝌蚪」はお玉杓子で、産卵から十日くらいで孵化し水中を群がって泳ぎます。「後ろ足が出ました」「今日は前足が」と、下五「放送す」からは朗らかに原稿を読み上げる児童の声が聞こえてくるようです。校内放送から元気をもらった作者の楽しい一句です。
(評)春は人生の節目に当たる慶事の多い季節。ひとりの人生でもそうですが、子や孫らのとなれば、家族の数だけの幸せがあります。慶びの大きさを「濃く」で表わし、その幸福感を「桜餅」で表しています。その場の温もりが、読み手をも包み込む味わいのある一句。「俳句は日常の存問である」と説いたのは高浜虚子。存問は挨拶のこと。庶民の幸せが一句となった春の挨拶句。
(評)「色のない街」は、本当は色んな色彩に溢れている東京のことなのでしょう。大都会・東京を乗せる大地に春が来たと詠んで、心象を造形したスケールの大きい句となっています。灰色の高層ビルが林立する景の中、ビルの脇には様々な芽吹き始めた春があります。ビル群とそれを取り囲む春の景を対比させることで、命ひしめく都会の大地の姿を強く印象付けた一句です。
(評)「春雨や」と季語の斡旋が巧みで、小気味よい作品に仕上がっています。芭蕉の遺訓をまとめた「三冊子」によりますと、「春雨は小止みなく、いつまでも降り続く三月の雨。二月末より用い、二月初めは春の雨となり」と区別しています。今の暦で言えば、晩春のしとしとと降る雨を言います。「乳白色」はネイルアートの色でしょうか。マニキュアを塗る一時と「春雨」との取り合わせが、作者の細やかな心模様を表しているかのようで、艶やかな情感をも生み出しています。
(評)「馬刀貝(まてがい)」は横長筒状の二枚貝です。干潟に生息し、深く垂直に潜って棲みます。その取り方は一風変わっていて、砂を削ると小さな穴があり、その穴に塩を振りかけると中から飛び出してきます。そんな光景を俳味たっぷりに詠んだ一句。「掴めや掴め」の明るい調子が、浜辺の楽しい様子を伝えています。臨場感のある詠みには、読者を大いに魅了するものがあります。
(評)「海市(かいし)」は蜃気楼のことです。海面付近の温度差によって空気の密度が均等でなくなり、光を異常に屈折させて物が浮いて見える現象です。幕末、浦賀にやってきたペリーの艦隊を思わせる「黒船」に対し、「かるがる浮かせ」とユーモアをもって詠んだ措辞が、まさにこの現象を的確に表しています。荘厳な光景が思い浮かび、作者の驚きと感動も伝わってきます。
(評)「生ふ(おふ)」は、ハ行上二段活用動詞の終止形です。落花してもなお、生きているかのような「花屑」の姿を上手く言い表しています。桜ほどその果ての姿まで見つめさせる花は、他にありません。叙景とは、自然の風景を言葉で述べて記すこと。この句は叙景俳句の奥深いところまで届き、作者の心情を読者に探らせようとする秀句です。風に吹き上げられた花びらの動きを情緒豊かに詠んでいます。
(評)花散る方へ、人は目をやるのが通常だと思いますが、花が意識を持ってまなざしの多い方へと散らせているのだと、作者は花に心があるかのように詠みました。作者の鋭い感性が光っています。その美しさを、人を主体とせず花の側から詠んだ一句は、万象の命の存在を明らかにする秀句です。
(評)二十四節気の一つ「啓蟄」は、陽暦では三月五日頃に当たります。冬眠していたヘビやカエル、虫たちが地上に這い出て活動を始める時期を言います。片や穴を出、片や穴に埋め込むという相対する行為。日常のさり気ない行動の中にも句材はあります。農業と関わりの深い二十四節気を取り合わせることで、日本の豊かな四季を感じながら生きる作者の姿が見えてきます。
(評)悲惨な戦争から抜け出せないウクライナ。こんな時代だからこそ、掲句の柔らかい素直な叙述が反って力強く伝わります。同じ春の季語の桜餅や草餅に比べると、上の句や下の句では読みづらい六音の「鶯餅」を破調で詠んだ一句。「鶯餅」の色や形が平和のイメージとも繋がっています。仲睦まじく二人で暮らす平和を、世界平和へと広げたように感じ取れます。
(評)小寒から節分までのおよそ三十日間続いた寒が終わると立春となります。「寒明け」は立春と同義です。やっと冬が終わったという安堵感が表れている季語です。春になって、心なしか「微塵切り」の音も軽やかに聞こえたのでしょう。「リズムが叩く」と詠んで、キッチンから聞こえてくる音に耳を傾ける作者。俎板のトントントンという音までが楽しそうに響くという発想が、意表を突いていて、読者を一句に立ち止まらせます。
(評)「消ゆ」はヤ行下二段活用動詞の終止形。作者はここで、大胆に大きく切れを入れました。七音、十音の破調の一句。よく失する「髪留め」の小物と、甘い感傷を伴い人生の儚さともとれる「春の夢」とを呼応させて成功しました。「祇園精舎の鐘の声」に始まる『平家物語』の冒頭文に出てくるのが「春の夢のごとし」で、「春の夢」は人の世の儚さの象徴ともなっています。女性ならではの場面が印象的に描かれています。
(評)なじみの定食屋さんでしょう。何か得した気分にさせられる春キャベツの盛り方を一句に仕立てました。どさっと盛られた春キャベツ。その店の心意気まで見えてきて、食欲も心もそそられます。昼時の定食屋さんならではの活気ある景が切り取られています。何気ない日常を詠んで、俳味のある一句となっています。
(評)椿の落花は花びらが一片一片散っていくのではなく、咲いたままの姿で一花がポトリと落ちます。その姿を「華麗に魅せる」と詠み、椿の美しさを称える作者。「終章も」と詠むことで花の一生を感じさせ、その裏には、人生の最終章にそうありたいと願う作者自身の心象風景も、詠み込まれているような作品です。
(評)あと何回、桜が見えるのだろうかと、誰もが感傷的になることがあります。告知より八年目の春を迎えた作者。「八年目なる」の中七に、本来は天性の明るさを持つ作者の人柄が表れているように思えます。素直な実感を伴うやさしい詠み方が、新鮮な叙情を届けてくれます。今年も見ることができた桜。その心からの幸せが綴られているように思います。
(評)作者は19歳。インターネット環境で育ったZ世代からの俳句も増えてきています。「春光」は光だけを言う季語ではなく、春の気配が地に満ちてきた有様や景色など春の風光を詠む言葉です。街を行く人々の足取りも軽やかな春の昼。「君」と横並びで乗るエスカレーターにも優しい日差しが降り注いでいたのでしょう。「君」の隣にいる歓びを感じている、自分の気持ちに素直な自然体が好ましい秀句となっています。
(評)人間は時に天邪鬼になることがあります。わざと逆らってみたくなるのです。朧月はうすぼんやりしている風情が良いのですが、それをわざわざ「磨きたし」と作者は言います。下五の「水を飲む」とは関係性が薄いようで、逆に、日本的な美の極みが秀でた心象俳句となっています。朧に霞んだ風流な月が、読者の鑑賞の幅を広げてくれています。
(評)「桜餅の葉」の塩っぽい味を「涙の味」と主観的に捉え、巧みな表現の一句一章句となっています。仄かに桜の香りのするその葉を、作者は「涙の味」だと詠みました。塩漬けだからと言っている訳ではなく、優美さの中にある桜の哀しみをも、きっと作者は察して詠んだのでしょう。主観的な感覚と写実性の入り混じる巧みな表現が光る作品です。
(評)春の装いで飾る「ショーウィンドゥ」が、街を一段と華やかにします。そんな春爛漫の街にどこか気後れしているのが今の作者。春は気候が良くなる反面、環境の変化にストレスを感じることもあります。心の影を透かされるように、ショーウィンドゥの顔もどこか冴えなかったのでしょう。誰もが一つや二つ抱え持つ憂さがあるので、作者の心に寄り添うことが出来ます。
(評)「春時雨」の一日。時雨と言えば冬の季語で冷たい雨が降りかかりどこか侘しさを感じさせますが、春時雨には明るさや艶やかさがあるように感じます。中七の途中の切れが、この句の強さと心地よいリズムを生み出しています。敢えて小ぶりな「をんな傘」と詠み、傘を差す人が雨をよけるように少しかがんだ姿をしっかりと浮かび上がらせています。雨の中を行く男性の姿であろうと想像させ、何とも言えぬ詩情溢れる作品です。
(評)陰暦二月十五日は釈迦入滅の日に当たります。この日、寺院で涅槃会が営まれますが、この頃に吹く西風を浄土からの迎えの風と言い、「涅槃西風(ねはんにし)」は大切にされてきた季語の一つです。「十本の彫刻刀」とは、仏像を彫ろうということでしょうか。無心になって祈りの形を彫る姿を想像させます。句調も切れも良く、格調のある落ち着いた二句一章句に仕上がっています。
(評)春の光に満ちた午後のティータイムでの一句。日射しが手元の紅茶に届く様を、「春光を垂らし」と詠んでいます。「垂らし」の一言が、差し込む春の光の臨場感を出し、余情や深みもある一句に仕上がりました。ゆったりと過ごす作者の手元のカップに、日射しがキラキラと輝いている様が想像できます。一緒に味わう「マドレーヌ」のお洒落な響きもこの句の魅力を高めています。
(評)散る桜は、時に速く時にゆったりと落ちます。桜の花びらが散るスピードを五センチと言い切った作者の詩才に感動です。この直球のような表現が魅力的な俳句です。一点に集中した新鮮な感性の光る句となっています。2007年に公開されヒットした新海誠監督のアニメーション映画、「秒速5センチメートル」を彷彿とさせる一句です。
(評)この句の場面は、子ども達が去った誰もいない砂場を想像させます。子ども達の帰った後に、ヒラヒラと蝶が舞うようにして過ぎていく夕暮れの景を、落ち着いた作風でふっくらと詠み上げています。誰もいない砂場に残された小さな山が三つ。きっと、子ども達の頭上も飛んでいたのでしょう。キラキラと好奇心いっぱいの目で追っている姿や、初蝶のまだどこか儚げな姿も一緒に想像できる一句です。
佳作
(評)小学生の背負うランドセルは、色や素材などさまざまな種類がラインナップされています。春季の俳句において、新一年生のために用意されて出番を待つランドセルや、小学校に入学したばかりの児童が体より大きなランドセルを一生懸命背負って歩く姿などは、好まれて詠まれる題材です。掲句のランドセルが従来の作と一線を画しているのは、真新しいランドセルの様子を牛革の匂いによって示しているところです。入学を祝う気持ちを「明」とすれば、ランドセルが出来あがる過程に牛の殺生がともなっているという「暗」の要素にも目を配った作品と言えるでしょう。