HAIKU日本2022秋の句大賞
特選
(評)倒木を覗き込んでいるのは「風」だという。風雨になぎ倒された木が「秋遍路」の行く手を邪魔しているのか。四国の札所巡りをするお遍路さんの全行程は約1400キロ。平坦な道もあれば、山岳には“遍路転がし”と呼ばれる難所も多く険しい道のりです。お遍路を人生と重ねて詠んだ句と思われます。味わい深い叙景句となっており、「秋遍路」の一歩一歩の歩みに刻まれる重みが伝わってきます。
(評)いきなり、ドキッとする五音から始まるこの句は、読み手の心に響き印象に残ります。現在も続いている戦争。銃を手にした姿が日々放映されています。握っているものが、「レモン」であることの安堵感が伝わってきます。もし「レモン」でなかったらという恐怖が読者にも湧いてきます。銃とレモンの取り合わせが鮮烈で、一読して忘れがたい今を詠んだ俳句となります。
準特選
(評)「なぞる」のは、紙に書かれた大切な箇所。秋の夜長に、何を思い巡らせているのでしょうか。作者の微妙な影を感じさせ、季語「秋思」にその乾いた心情が託されています。「秋思」は秋の“ものおもい”です。指の乾きに失われていく若さを、敏感に感じ取る作者。一種の哀しみを持つ境涯俳句としてしみじみと心に響いてきます。
(評)近年は少子化という大きな時代の変化の中にあります。「墓終ひ」は、今や世情の大きな問題になりつつあります。我がことのように鑑賞する人も多いだろう一句。いつかは現実のものとなる「墓終ひ」。「ふれぬ」には、作者の様々な心情が読み取れます。日常の中の作者の感覚が、社会詠とも言える鋭い作品となっています。
(評)秋の風物詩の一つ「吊し柿」。かつては多くの家で見られました。「五棹なす父」の中七が、思い出の中の父親像を具体的に想起させます。山里の暮らしぶりの中に「父」の姿があって、黙々と手早く仕上げていく姿に尊敬の念を抱いていたことでしょう。下五の形容詞の連体止めも一句に相応しく、父の姿を強く印象付けます。昔の父親像が共感を呼び、読者を懐かしい日々へといざないます。
秀逸句
(評)室町時代の御伽草子の一つ「物くさ太郎」。怠け者が都に上り、歌才を認められた上での出世物語です。作者は自らを自嘲して「物くさ太郎」と詠んだのでしょうか。「行く」のリフレインが効果的です。淡々と人生を詠んだ俳句として、ユーモアの中にも感慨深いものが内包されています。
(評)「秋の薔薇」は、夏の薔薇と違って花は小ぶりですが、秋気に気品のある芳しい香りを漂わせます。掲句は、作者の胸の内が、やや抑えられたリアリティーをもって表出されています。「胸の棘」と「秋の薔薇」との取り合わせで、作者の心中にある切なさや愁いが伝わってきます。秋の深まりの中、深い郷愁に誘われていきます。
(評)収穫の秋と言われるように、秋は一年で最も食卓を豊かにしてくれる季節。人々は実りの秋の喜びを分かち合います。果物の王様と言われる「りんご」の真っ赤な色は、生命力そのもののようです。その「りんご」を食して、命を繋ぐと感じる老いの心境を思わせます。切なさの中にも、明るい明日を感じさせてくれます。
(評)歳時記でいう「墓参」は、お盆の頃を言い秋の季語です。普段以上に入念にお墓を磨き、掃除をして先祖と対面します。作者は「介護の日々」まで愛しく、また、懐かしく思い出しているのでしょう。素直に優しい言葉で詠み上げた秀でた作品となっています。
(評)「ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」は、百人一首33番。「久方」は、光・天・空・月などの枕詞で「日の射す方」の意味があります。心許した仲間たちとの泊りの夜でしょうか。家族との「川の字」でしょうか。星に限りなく近い場所で眺める「天の川」は、壮大かつ美しく言葉では言い尽くせないものだったに違いありません。
(評)六角のがくと共に朱に色づいた実は、人形の頭にしたり口に含んで鳴らしたりする子供の玩具でした。夏の「青ほおずき」から、やがて袋の中の実も熟し袋と共に朱く色づいて秋の色に変わります。枝からぶら下がるその「ほおずき」の様を、「小宇宙」と感じた作者の感性が冴えています。朱い温もりで家人を迎えてくれていることでしょう。
(評)八音と九音の破調句に、思いの丈を詠みこんだ一句。「秋蝶」は、涼しさの訪れた木立の中を舞います。軽やかに飛ぶ春の蝶や華麗な姿の夏の蝶とは違い、秋の蝶はどこか弱々しく見えます。駅で見送る淋しさを「秋蝶」に語らせたかのような趣のある一句。「遠距離恋愛」の持つ一面が上手く表現されています。
(評)埼玉県羽生市と秩父市を結ぶ「秩父鉄道」。都心から最も近くSLが見られるので、鉄道ファンなら誰でも知っています。この固有名詞が実に効果的で、読み手の想像力をかき立てます。生活感のある素直な叙述が技巧を凝らすよりも新鮮です。「し」の脚韻も非常に流れが良く、一句に爽快感を与えて妙味があります。
(評)原子爆弾投下後の八月十五日。天皇陛下によって終戦が国民に伝えられた日。詠み手の今は、ゴミ出しが一つの仕事になっているようです。あれから七十七年、多くの局面を乗り越え、今の日本は幸せな国になっているのでしょうか。平凡な日常こそがきっと幸せなことなのでしょう。
(評)「暗がりと温もりの間に」の措辞が、流れるような調べとなって響きます。この抽象的な十二音から、一気に「煮る南瓜」と現実的かつ具体的な下五へと結句させたのは見事です。秋の落日は早く、まだ日がある内に取り掛かった夕食の支度も、瞬く間に日は落ちて家族が帰宅します。「南瓜」のことこと煮える音や、ほくほくした情景が目に浮かびます。
(評)秋の夜長を楽しむために、ふと本棚から取り出した一冊の本。その本に差し込まれていた「紅葉の栞」。若かった頃のことを思い出し、感慨にふける作者の心情が浮かびます。きれいだった紅葉を拾ってそっと挟んだまま月日が経ったのでしょう。当時を懐かしむ心境が「かな」の詠嘆によって深みを増しています。
(評)秋の季語「律の調べ」の子季語が「律の風」。「律」は陰を表し、その反対を「呂」と言います。秋冬を陰とすることから、「律の風」は秋らしい感じの風を表わし「還暦」とことのほかマッチしています。懸命に漕ぐ理由も風景もすべてを省略し、「立ち漕ぎ」だけで示した詠みは鮮やか。秋風が身に沁みる景も思い浮かびます。
(評)コロナ禍にあって三年目のこの頃、やっと「運動会」も復活されることが増えました。空は真っ青な秋の天。さぞ、親子共々楽しんだことでしょう。名詞と助詞だけで詠んだ句は歯切れが良く、運動会のあれやこれやの場面が読者には浮かびます。たくさんの人々の賑わいと郷愁をも感じさせる一句。
(評)口語俳句の良さを充分に生かし切り、日常会話がそのまま句となったような俳句です。「吾亦紅」は丈が高く、分かれた枝先に赤紫色の花を無数に付けます。その揺れる姿は、秋の野にあって寂しく物憂げです。その光景は、人との距離と疎外感を思わせます。
(評)薔薇は一季咲きのものもありますが主流は四季咲き。剪定の時期や気温などの条件が揃うと、夏でも秋でも同じように咲かせることができます。とはいえ、冬に向かっていく頃の薔薇は、最盛期の夏の薔薇とは趣が異なります。花を求める作者の心情を季語に語らせた一句です。一句一章で詠むことで、想いはストレートに届けられます。
(評)何度も練習を重ね、やっと回れるようになった時の感動は忘れ難く、ほとんどの人がそのときの感覚をいつまでも覚えていると思います。懸命に練習に励む子を見たのか、その姿に幼い頃の自分を重ねて「秋の日」が鮮やかに蘇ってきたことでしょう。「渾身に見る」の措辞が独特で巧みな一句。
(評)「秋思」は秋の頃の寂しい“ものおもい”を言います。どこまでも澄み渡る秋空から注ぐ光には、かえって心に微妙な陰影を深めさせられます。「わが秋思」と上五に置くことで、心の内に広がる寂しさがより一層伝わってきます。その想いを詠嘆の助動詞「けり」で締めた味わい深い作品となっています。
(評)テムズ川はイングランド南部のロンドン市を通過し、北海へと注ぐ全長約340キロの河。九月十九日、ウエストミンスター寺院でエリザベス女王の国葬が執り行われました。在位七十年、長く国民に慕われた君主との別れを世界中が受け止め、女王の死を悼みました。季語は作者の見つめる雲が、遙かロンドンの空にまで繋がっていることを思わせ、世界中に広がる哀しみを内包した秀句。
(評)思い思いの格好で街中を歩き廻るのが、すっかり定着した「ハロウィーン」。コスプレは年々派手さを増しています。そんな「百鬼夜行」の若者たちの騒ぎの中にいるのが作者。誰がどんな意図で作ったブームなのか。人混みの臨場感を伝えながら、ブームに踊らされている群衆を、どこか冷めた目で見つめている作者を感じます。
(評)「しかし」の接続助詞がとても効果的に配されています。毎日の生活が安定しているのかと思えば、「欠けた月」がむしろ不安を感じさせます。人にはそれぞれ転機があり、また運気も何年かごとの周期を持っているとのこと。「変わり映えない日々」に、鬱々とした感情を抱いている心情を「欠けた月」が見事に表わしています。内観する姿を破調で鋭く捉えた秀句です。
(評)陽光とは鋭いもので紙類は日々色褪せていきます。そんな短冊はかえって興趣が湧くもので、年月の重みを加味してくれます。店の佇まいが、一年のほんの一時期しか味わえない「新蕎麦」との出会いを効果的に演出しています。お店の歴史と作者の愛着を感じます。
(評)作者のいる病棟からは「秋茜」の群れが見えるという情景が、胸に刺さる一句です。寂しい夕暮の秋の空に見た赤い一群れの「秋茜」は、作者には希望の灯りに見えたのでしょう。写生句としてすっきりと仕上げた句は、余情も深みもある秀でた作品となっています。最近数が減っているとされる秋茜の小さな命は、生命力の象徴として明るさを感じさせてくれます。
(評)「良きこと」が続くと、次は何か嫌なことが起こるかもしれないと気を回してしまうもの。繊細で傷付きやすい人間の心を描いて妙味ある作品となっています。幸せな一日の「敬老日」。その裏にある、人間の心理を巧みに表現しています。
(評)鎌切のことを「螳螂(とうろう)」と言ったり、「祈り虫」と言ったり、面白いのには「拝み太郎」という傍題もあります。胸の前で鎌を揃える様が、まるで祈っている姿のように見えるから「祈り虫」です。「祈り虫」にとっては戦闘の姿なのかもしれませんが、秋日を浴びた姿は大きな斧がさぞ立派に見えたのでしょう。その姿を「威風堂々」と詠んだ作者の着眼が光っています。
(評)「つくつくほうし」が「我の名」を名乗るという何とも可笑しくて興趣ある作品。上五以外はすべて平仮名で、ラ変活用動詞の「をり」も上手くこの句を昇華させています。立秋を過ぎても悠々と鳴き続ける「つくつくほうし」。セミになった気分で詠んだ視点が、コミカルさを生んだ一句です。
(評)錫杖は修行僧が持ち歩く錫の付いた杖のこと。巡行の時の杖として、また猛禽や毒蛇から身を守るために音を立てながら歩きます。現在は巡礼などの人たちも用います。シャンシャンと響く清らかな音を「音の分け入る」と詠んだ中七は、秋の興趣と共に強く印象に残り侘しさを漂わせます。
(評)大きな桐の葉がかすかな風に誘われて舞い落ちる様は、秋の情趣として詠まれてきました。それをシャープペンと配合させた作者のセンスが、類想を越えた新鮮な切り口の俳句を生みました。桐の葉は、じっと目で追うことのできるスピードでゆったりと落ちます。たびたび折れる芯にいらつく心情を、桐の葉がゆったりと癒やしてくれたのかもしれません。
佳作
(評)秋に鳴く虫のなかで最も身近なものの一つが蟋蟀でしょう。初秋から鳴きはじめて、秋遅くまで鳴いていることがあります。掲句を読んで私のなかに広がったイメージとしては、体調のわるくなった夫人に付き添って夜間診療に訪れている場面です。日中の正面入り口とは違い、夜間診療の専用入口は病院の脇や裏手に設置されていることがあります。夫人が診察を受けているのを廊下の長いすで待ちながら、容体を案じ、難しい病状でないことを祈っています。静まり返った夜の病院に、窓の外から蟋蟀の鳴き声がしきりに聞こえてきたのでしょう。夫人を思いやり、不安になる作者の心情を思うと、蟋蟀の鳴き声がいっそう哀切に聞こえてきました。