HAIKU日本2021夏の句大賞
特選
(評)冬眠から目を覚まし田圃などで鳴き始める蛙は春の季語ですが、木の枝や葉に止まって雨模様の日にギャッギャッと鳴く「雨蛙」は夏の季語です。「雨蛙」は雨の降る時を計っているのでしょうか。「雲に目を据ゑて」いる雨蛙を見つめる作者の姿に、自然に対する温かい眼差しを感じます。虚子の言葉に「日常の存問が即ち俳句である」という言葉があります。この句は目の前の雨蛙と交わした存問のように感じられます。自然を心感ずるままに詠んでいて、作者も雨蛙と一緒に雨が降るのかなあと「流るる雲」を見上げているのでしょう。
(評)この句の「磐石の穴」は、奈良県明日香村の石舞台古墳の石室でしょうか。磐石の「石」の文字がそう思わせます。大化の改新から奈良時代にかけての奈良の都を中心とした、古代国家の黄金時代を彷彿とさせる我が国最大級の方墳です。墳丘だったものが盛土を失い、巨大な石が露出したまま今に至ります。作者はこの穴から見上げるスケールの大きな空間を詠んでおり、悠久の時を経て、夏の一日の壮大な歴史ロマンに浸る作者の横顔が見えるようです。
準特選
(評)多くの登山客が待ちに待った「山開き」の日。それぞれに見晴らしの良いところに陣取り炊事を始めた時、「コッフェル一つ」が早々に湯気を立てます。「コッフェル」は、登山やキャンプなど屋外で用いる携帯用の調理用具のこと。「沸き上がり」が仲間たちとの晴れ晴れとした心や、沸き立つ夏雲の様をも連想させます。大自然の中での食事は、登山者にとって堪らない時間です。登山者たちの楽しそうな表情の見える軽快な一句。
(評)軒先に吊るされた「金魚玉」の中の金魚は、動きによって大きく見えたり歪んで見えたりするものです。「我といふ命題」も、そのようなものだということでしょうか。メタファーの効いた作品です。自分とは一体何なんだろう。その真偽をはっきりさせるのが「命題」です。その自問自答が一句となりました。何故生きるのか。自分とは何か。作者の揺れる心は読者にも哲学的な謎解きを迫っているかのようです。難しい問い掛けを、揺れる「金魚玉」が涼やかに受け止めてくれています。
(評)昼夜の時間がほぼ等しい春分の日から夜は少しずつ短くなり、夏至には一年で一番夜の時間が短くなります。秋の夜長に対して夏の「短夜」。夜の明けやすさへの感慨を含んだ季語です。三つの言葉を「の」で繋いで情景がよく見え、リズム感の良さが句の好感度を高めます。普段のままの姿を詠んだところに、自然に俳句が寄り添ってきたような心地よさがあります。「短夜」の緩やかな時間が流れ、夜の短さを何処か物足りなく思う気持ちが滲んで見えます。
秀逸句
(評)1945年8月6日広島に、8月9日長崎に、原子爆弾が投下されて76年が経ちました。「降りしきる」のは、ガラス片が突き刺さり傷だらけになりながら今も残る“被爆ピアノ”の音でしょうか。「鍵盤の音」が生き証人となって、原爆と戦争の悲惨さを物語ります。深く沈み込むような音の響きは、犠牲者の霊を慰めているかのようです。また、戦争とピアノと聞くと、出撃を控えた特攻隊員が今生の思い出に弾いたベートーベンの「月光」も思い出されます。
(評)「金銀花」はスイカズラの花のことです。初夏に二つ並んだ筒型の花を開き、咲き始めは白で次第に黄色に変化します。金と銀が混じったように見えることから「金銀花」と呼ばれます。表記にも一工夫した「ヒト」との取り合わせで、人間探求という永遠のテーマをさらりと一句にした作品。生とは何か、死とは何か、そんな事を想いながら「ヒト」はこの星に住んでいます。日常に専念しながらも「未だ問ふ」作者がいます。
(評)「水中花」は江戸時代からある玩具で、水中に投じるとパッと開きます。昭和の歌謡曲に“愛の水中花”がありますが、水中花に妖しい色気を感じての一句。時折揺らぐことで、悪戯っぽかったり我が儘だったりするかのように感じたのでしょうか。上五の「生意気な」に含みを持たせ読者に投げ掛けています。楽しくて涼し気ですが造花としての哀れさのある「水中花」が、読者の想像力を膨らませます。
(評)初夏の頃から水生植物の多い池や湿地などに生息する「糸とんぼ」。体が糸のように細いことから「糸とんぼ」と呼ばれますが、色の鮮やかさからよく目に留まります。止まる時は翅を広げず、翅をたたんで立てるようにします。止まったり離れたりした時の「蔓先」の僅かな動きを描写しています。目の前の景をやさしい眼差しで詠み上げた的確な写生が魅力的な一句。
(評)孫を詠む俳句には類想句が多くなり、佳句になりづらいとよく言われます。“孫俳句”の難しさですが、作者は果敢に挑戦してくれました。素直な叙述が一句を成功へと導きました。「三尺寝」は狭いところで寝るのではなく、本来は日脚がほんの三尺移るだけの僅かな時間の眠りを言います。ウトウトと昼寝の最中のこと。余りにも可愛らしい孫の仕草に、ほのぼのとした日常が感じられ共感を呼びます。
(評)思いがけない取り合わせの作品。「頬のシミひとつ」と詠んでここで大きく切れます。八音九音の破調句で、断切が読み手に様々な状況を推察させます。“ひと夏の恋”は誰もが感じるロマンの一つですが、道具立てが「シミ」というので類想が及びません。このシミを見ると、ふとあの夏の日を思い出すのでしょう。はしゃぎ回ったあの夏。若かった頃を感じさせてくれる一句。
(評)本道から分かれ細くくねった道を暫く下って行くと、滝の音も次第に大きくなってきます。「草書」は行書を崩したものと思われがちですが、実際には隷書を早書きするために生まれた書体で点画が大幅に省略され曲線に富んでいます。滝への道を草書のようだという作者の充実の時を、滝が迎えてくれているかのようです。夏の木々の緑の中から滝が現われ、解放感と涼感を届けてくれます。
(評)過疎化で休耕地が増えた今、美しい棚田をいつまでも残そうと活動する「棚田守」。棚田を守り里山を保全します。放置された棚田を復元する作業は山ほどあります。忙しさの中、見かけた「向日葵」も見て回ったという「棚田守」のやさしさが溢れ出ています。山里に暮らす人々の何気ない日常が詠み込まれていて、感謝の気持ちと共にホッとさせられます。
(評)「漣(さざなみ)」は細波や小波の意味の他に、心中の小さな動揺をも示す漢字となります。俳句は明確な主語が示されていない場合は、一人称なので作者が主語となります。キャンプなどに出掛けた川辺での一句。季語「皐月」は陰暦五月の異名で雨季に当たり、「皐月の空」と言えば梅雨雲に覆われている空模様です。蛍や紫陽花などこの月の風物は、日本独特の情趣があります。「漣を蹴って」に、作者の吹っ切れたような心情が見えます。
(評)「夏燕」への問い掛けが優しく響く一句。燕の平均寿命は一年から二年で、生きている限り同じ場所に戻って子育てをすると言われます。「初孫は」の問い掛けに、「夏燕」に対する思いやりや親しみが込められています。長生きの燕もいて、四年連続で同じ夫婦が同じ巣でヒナを育てた例も報告されています。初孫誕生は現実味のあることですね。子育てに奮闘する親鳥たちに寄せた作者の想いに心が温まります。
(評)髪は年中洗うものですが、夏は汗や埃で特に汚れやすいので「髪洗ふ」は夏の季語となっています。妻として母として歩んできた日々とは裏腹に、どこにこんな大胆な思いが潜んでいるのかと思わせる一句。日常からかけ離れたことへの憧れを感じますが、現実は、家族を置いての夜の食事会程度なのかもしれません。大胆に言い切ったからこそ、反対に作者の貞淑さが引き立ちます。
(評)「山清水」の「かたはら」にある「鉄棒」。人工的な物体が取り合わされることで、清らかな流れがクローズアップされる効果があります。深い山中でのまるでサスペンスドラマのような一件。ふと目にした「鉄棒」の謎が頭から離れない作者。山女魚や鮎を潜って“シャクリ漁”などで狙うとき、漁をする人が流されないように川に立てた鉄の棒を握ることがあるそうです。「何の鉄棒」の謎は解明できたのか、大いに気になります。
(評)みずみずしさが売りの夏の果菜たち。トウモロコシにナス、キュウリ、トマトなど豊富で色もカラフルです。朝採れの野菜や果物まで山積みにして、「猫車」を押して帰ったのでしょう。何と贅沢で幸せなことでしょう。品物を言わずして「盛夏山積み」の措辞が申し分のない一句。畑から帰った作者は、これらをどんな料理に変身させるのか羨ましい限りです。
(評)夏の天気は急変しやすく、空が暗くなってきたかと思う間もなく激しい雨が地上を叩き付けます。コンクリートを濡らす瞬間を捉えた一句。「蟻走る」と表現して、日常の一景を優れた観察力で書き留めています。また、コンクリートジャングルと呼ばれる都会のビル群での俄雨で、群衆がサッと逃げ出す光景ともリンクします。「コンクリ」と「蟻」の強弱の対比が面白い一句。
(評)冬の季語である「マスク」ですが、コロナ禍の今は「夏向けのマスク」を皆なで付けているのが、「街の中」の姿なので実感が湧きます。街の人はキャラクター絵柄やお手製のものまでと、カラフルにお洒落になっています。マスクを付けて二度目の夏。ウイルスという目に見えない恐怖が身に迫っているという現実に、人々は慣らされてしまいました。未来の文献にこのパンデミックが、どう記されているのか見てみたいものです。
(評)夏の風物詩の花火。「手花火」には職人の技の妙が味わえます。どこか懐かしさの漂う一句です。「あとひとつ」「もうひとつ」のリズム感が心地よく会心の作と言えるでしょう。作者が手に持っているのは線香花火でしょうか。これが最後と思って見つめても、まだ終わりにできない感傷的な想い。そうした作者の心情と僅かな時間で消えてしまう「手花火」の儚さがリンクして、情趣を醸し出しています。
(評)チガヤを輪の形に作ったのが「茅の輪」。十二月の晦日を年越と呼ぶのに対し、六月の晦日を夏越(なごし)と呼びます。長野県安曇野市の穂高神社では「茅の輪」をくぐる「水無月の夏越の祓い」が行われ穢れを祓います。まず左足から踏み入れ、左回り、右回り、左回りと八の字“∞(無限大)”を描いて回るのが正式な作法とされます。下五の「無限大」は限りなく広がる夏山の光景をも捉えてのことでしょう。心に残る景を大らかに詠み、賑やかな女子旅の楽しさが伝わってきます。
(評)自販機の取り出し口に落ちる音。落下する「ガラ」という音が、「炎天下」ではとりわけ豪快に響いて聞こえたのでしょう。自販機から缶やペットボトルが落下する音を「ガラと音上ぐ」と作者は表現しました。良く冷えた最初の一飲みが全身を巡っていきます。暑い日、誰にでもある記憶だからこそ、読者はすっとその情景が思い浮かびます。ごく日常の光景を俳句に仕上げた一句が楽しくて新鮮です。
(評)刺身や塩焼きはもちろん、すり身にしたお吸い物や干物など料理法も豊かな「飛魚」。「飛魚」を九州などでは“あご”と呼んで干物にします。味は淡白で焦がす位に焼くとまた格別の味となります。それに酒を注いで酌むと旨さはひとしおでしょう。仲間と賑やかに酌み交わすのもいいですが、独り酒も絵になる一句です。作者の生き方に根差し人生を詠んだ境涯俳句ともとれ、一句に漂う味わいも格別でひときわ身に沁みます。
(評)「八雲立つ」は多くの雲が幾重にも沸き立つさまを言い、出雲の賛美詞です。由来となったのは、和歌の始まりとされる「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を」で、作者は須佐之男命です。須佐之男命は本殿の真後ろに祀られています。出雲大社を「縁取る晩夏光」は、現世に現れた素晴らしい光景だったのでしょう。大社に降り注ぐ「晩夏光」に視点を合わせた作者の感性が、神聖な場所をさらに荘厳にさせています。
(評)三橋鷹女は、中村汀女、星野立子、橋本多佳子と共に“4T”と呼ばれた大正から昭和にかけての女流俳人。「一句を書くことは一片の鱗の剥奪である」と凄まじい想いを語り、「鞦韆は漕ぐべし愛は奪うべし」は代表句。異才の俳人の句集を読みながら、ほっと息を付きたくなる心理が、上五の「アイスコーヒー」で上手く表現されています。「ほの寂し」という作者の心情にも共感を覚えます。
(評)人が住まなくなった家の壁面に思うがまま伸びていく青蔦。いつもは何気なく見つめていて気にも留めていなかった「あばら家」ですが、「蔦繁る」頃ともなるとその姿がはっきりとしてきます。人が去り生気を失った姿に、自然の緑の壁ができます。中七の「輪郭取りて」の比喩表現が効果的で、蔦の緑の鮮やかさがくっきりと「あばら家」を覆っている情景が思い浮かびます。
(評)夏の日差しの中の「白パラソル」が、際立って見える一句です。日傘の色はカラフルなものですが、この句の風景の中の白はパラソルを差す人物の趣きを漂わせ、淑やかな女性の姿が浮かびます。六音、十三音の字余りの句がイメージを膨らませ、却って快い韻律を感じさせてくれる作品です。
(評)梅雨が続く中、ふと晴れ間が広がると空の青さも格別に感じます。「梅雨晴間」を狙って急いで自転車を走らせたのか、コロナ禍もあって、スーパーでの買い物が思ったより多くなってしまったのでしょう。自転車の前籠にドサッと入れた重さでふらつきます。自然体の生活詠が心地よく、読み手は気を付けてと声を掛けたくなります。日常の出来事を鮮やかに一句に詠んでいます。
(評)「夜濯ぎ」は夏の季語で、日中に汗した衣類などを夜に洗い、濯いで干しておきます。「週末の夜濯ぎ」とあって、明日からの休日の嬉しさも感じられ「ジャズを聞きながら」の気分がよく伝わってきます。洗い終えて夏の夜風に当てます。ジャズの軽快なナンバーに合わせて、夜のひと時を過ごす幸せそうな作者が見えてきます。
(評)「アンチテーゼ」とは、ある事柄や主張を否定するために出す反対の主張のことです。コロナ禍の今、作者は「無言」そのものにそれを感じたのでしょうか。「無言」という形で現実に抗いながら過ごす作者。「汗拭ふ」に、コロナ禍の夏を生きる作者の生活感が漂います。出口が見えないことに対する無力感を読者と共有する一句に仕上がっています。
(評)竹は新葉が出始めると、黄葉した古い葉を落とします。竹林に舞う古葉は美しく「竹落葉」は夏の季語です。「文庫」を読み始めると睡魔に襲われたという一句。中七から下五の措辞が意表を突き、作者の独特の視点が現れています。心地良さに包まれながら次第に眠りに落ちていく作者。ひらひらと舞い落ちる「竹落葉」が句に優しさを出し、軽みのある一句になっています。
佳作
(評)天牛は「かみきり」と読み、昆虫のカミキリムシのことです。天牛という表記は、長い触覚が牛の角を思わせ、空を飛んでくることに由来すると言います。この句では、漢字表記による視覚効果を生かしているのではないでしょうか。中七下五では、天牛の体色を瑠璃色と表現し、「宙より賜りぬ」と謳いあげています。「宙」は「そら」と読みました。音に注目すると一句の中に「ら行」が散りばめられており、「天」や「宙」につながる、明るい大らかな印象に寄与していると思います。作者の意識を天牛に集中し、その果てに全宇宙の中で天牛の存在を捉えて詩的表現に結晶させた、珠玉の一句です。