HAIKU日本2021春の句大賞
特選
(評)椿の散る時は花びらが散るのではなく、花全体が音を立てるかのように落ちます。その椿が地上へ落ちてゆく様を切り取った一句。落花点は「己が影」。「目掛けて」と擬人化して詠むことで、椿に強い意志を持たせ、この花の気高さを表出しています。一語一語が心に沁みて印象的です。格調高い写生俳句となっています。
(評)試験に無事合格し、新生活への期待を胸にいよいよ入学の日。下宿先に郷里からの荷物が置かれ、期待がある反面、緊張と不安の中での第一歩を踏み出した日に感じた「下宿屋の匂ひ」。昨日までとはまるっきり違う生活が始まるという思いに、格別のものがあります。入学シーズン真っ只中の春、過ぎし日の甘酸っぱい思い出や感慨を込めた回想句でしょうか。あの日の自分を重ねたのかもしれません。
準特選
(評)田植えを前にしてしっかりと畦を塗り固めていく作業が続きます。コロナのワクチンを打ち終えた安心感もあるのでしょう。「続きの畦を塗る」と淡々と農作業に精を出す姿が、田に生きる人の強さを表わしています。「ワクチン」と「畦を塗る」という今の日常をありのままに詠んだことが殊更斬新に見えます。まさに時勢を詠んだ時事俳句として味わい深い一句。
(評)飛び回っている子ども達の様子が伝わってきます。沈丁花の香りは遠くまで届き、春の訪れを教えてくれます。沈丁花は春を、金木犀は秋を代表する香りの木です。そんな香りの中での「鬼ごっこ」を見守る作者。「香を突き抜けて」の措辞が勢いと楽しさを読者に届け、子ども達の躍動する春を生き生きと描き出しています。
(評)何があったのか、松葉杖のお世話になっている作者は17歳。結果は良好で、月を眺める心の余裕も持てるようになったようです。春の大気で物影がぼんやり見える現象を昼は霞、夜は朧と呼び古人もこの風情ある景を味わい歌に残しました。春の夜空にうすぼんやりとかかる「おぼろづき」。「おぼろづき」を眺めながら静かな病室にいる作者の退屈や気怠さが伺えます。
秀逸句
(評)風に乗って高々と揚がる凧は、逞しく清々しく感じられます。「青空ぎゆつと」に、澄んだ青空に舞う凧の姿が鮮やかに表現されています。「凧」は競技としても行われ、各地に糸を切り合う凧合戦が伝わります。「凧高し」と一点に絞った詠みによって、春風を受けぐんぐん泳ぐ凧の迫力と臨場感を増し、読み手の心を瞬時に捉える爽快な一句。
(評)山や草原などに火を放って枯草を焼き払う「野焼」は、病害虫を駆除してくれ残った灰は肥料となります。奈良・若草山や山口・秋吉台、阿蘇・草千里などの「野焼」は春を告げる風物詩です。草原はそのまま放置しておくと森林へと変化していき、そうならない為にも欠かせない大切な作業です。「土は過去草は未来へ」の措辞に、青草の生き生きとした生長と未来への想いが息づいています。
(評)「春星」はかすかに潤んだように見え淡い光で瞬きます。春の星空の下、牛の出産の時を待つ心情が伝わってきます。緊張の時間が続き、無事出産を終えた時の喜びはひとしおでしょう。神秘な生命の誕生は何事にも代えられないかけがえのないものです。一夜の情景を「春星」の輝きが優しく包み込んでいます。
(評)日差しもだんだんと強くなってきた春、その光を捉えきらめいて見える風を「風光る」と言います。「風光る風の集まる」と畳み掛けるように詠んで仕上げた一句。新生活がスタートし、この無人駅にも新しい通勤や通学の利用者が集まってくるのでしょう。「風の集まる」にはそうした意味合いも含まれているように感じられ、「風光る」によって人々の生き生きとした姿が浮かびます。
(評)「蝮草」は上部にある葉の先端が尖って突き出しています。ちょうど蝮が敵を襲う時に頭をもたげた姿によく似ており、茎の色も褐色のまだら模様で蝮を連想させます。山や川原の草むらで見かけて、さぞ不気味だったのでしょう。上五の季語を漢字に、中七下五の措辞を平仮名表記にし、くっきりと区別することで一瞬ひるむ状況を字面からも伝えています。
(評)「春疾風」は、日本海を通過する低気圧に吹き込む強い南風。春先の関東地方で多く発生します。強風になびいた切り過ぎた前髪。意に沿わないという後悔よりも爽快さを感じさせてくれる一句。爽やかな一句と捉えるのは季語「春疾風」の響きでしょう。作者の行く手を阻む「春疾風」と「前髪」の取り合わせが絶妙の一句です。
(評)道端の菫にも幸せを感じることも、きっとあるだろうという作者の心が伝わってきます。道の端っこにしおらしく咲いた「花菫」に「幸せあるか」と呼び掛けた一句。万物に霊魂が宿ると考えるアニミズムは、感情や知性があるのは人間だけではないという考えです。作者に呼び掛けられた花菫もきっと幸せを感じた事でしょう。
(評)天空を戻る鶴に、お前は行ってしまうのかと呼び掛けたような一句。秋に渡来した鶴が越冬し、春になって北方へ帰っていくことを「鶴引く」と言います。ルートとなる地点の上空には、数百、数千もの鶴が整然と列をなして帰っていく“鶴の北帰行”が見られます。その感動を切れ字「や」で詠嘆した一句。地上に取り残されたかのように感じる人々の悲哀を更に深めています。
(評)「白杖」は視覚障害のある人が道路を通行するときに使用する白い杖。杖を突く音は周囲に存在を知らせる役目もあります。「梅の花」の清楚な匂いが、目の不自由な方の背に届いているかのようです。梅の花が「見送る」と詠み「梅の花」も作者と同じように、無事目的地に着くことを願っているかのように優しく気品のある一句に仕上げています。
(評)食べ物は自分で作らねば手に入らない時代が来るとも囁かれています。「野菜屑」を埋めることで土づくりにいそしむ作者。下五に「彼岸かな」と置くことによって、ご先祖様への感謝の気持ちと悟りの境地への想いが感じられるような一句。世の中は循環によって成立していて「野菜屑」も人間も土に戻るのです。色々な気付きを今一度考えさせてくれる秀句。
(評)仏様の丸まった髪の毛を「螺髪」と呼びます。髪の毛一本一本がカールしているこの髪形は、悟りを開いた仏様の特徴のひとつです。いたずら好きな「春嵐」は、仏様の頭の螺髪を掃き、人の傘などは反り返してしまいます。「春嵐」は塵や埃を巻き上げながら時には災害をも起しかねない強風です。難儀する参拝者の姿を冷静に描写した一句。
(評)鳥たちが次々に現れて鳴く様を表わすのが「百千鳥」。春の山野を明るくしてくれます。日も暮れてきたというのにお前たちは寂しくないのかと、まだ頻りに鳴き交わしている鳥たちに呼びかけています。「百千鳥」の季語の持つ本意本情を「さみしからずや」の措辞に込めて詠んだ一句。
(評)「かたち」と平仮名表記したことで優しさが伝わってきます。背丈20センチほどの「桜草」。花の形は桜の花に似て愛らしく、色の鮮やかさがその場をパッと明るくしてくれます。暖かい春の一日、机の上に置かれた補聴器。確かに音符の形に似ています。一句の底辺には穏やかさが流れ、日常の何気ない景を詠んだ落ち着きのある一句となっています。
(評)季語「行く春」は去り行く春を季節の移ろいとして客観的に捉えた季語です。コロナ禍で今はバスターミナルの様相も変わってしまっているのでしょう。「夜行バス」に不安と哀切を感じます。巡る季節の中であらゆるものが淡々と流れていきます。家族への想いを胸に、赴任先へと旅立つ作者の姿が描かれています。
(評)梶井基次郎は大正から昭和初期にかけて活躍した小説家で、作品に「檸檬」や「桜の樹の下には」などがあります。いかに桜が美しいかということを「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!」と強烈な書き出しで綴ったのが「桜の樹の下には」。桜を見るとあのフレーズが思い出されるという人は少なくないでしょう。満開の桜の下で梶井の世界観が語られ、作者の心の中にも広がります。
(評)春には人生の節目となるさまざまな場面があります。入試や受験と共に「合格」は春の季語です。掲句から伝わってくるのは読者の心をもウキウキさせる充足感。合格の喜びの一方で、不合格の人もいる悲喜こもごもの合格発表。「小さく拳振る」の控えめに噛み締める喜びに、明暗分かれる日の微妙なニュアンスの光景が映し出されています。
(評)「薄氷(うすらい)」は、春の到来を感じさせる季語です。キラキラとした輝きは儚さを連想させます。春の明け方を「蒼き時間」と表し、掲句は作者の心象が滲む一句となっています。中七と下五の措辞が印象深く、助動詞「けり」がよく効いています。作者の心模様と「薄氷」との取り合わせが深い余韻を残しています。
(評)躓いた小石を「地球の角」と表現したのでしょうか。大きく飛躍して詠んだその非凡さに脱帽します。早春の冷たい風が吹く中で青く伸びた麦を踏む姿は、一歩ずつ丁寧に地球を踏みしめていく地道な作業です。小さな人間の営みを普遍的な姿に置き換えた一句。地球という宇宙のひとつの星で行われる「麦踏み」という動作が、何か大きな意味を持つかのように感じられます。
(評)コロナ禍にあっては病室に見舞うこともできません。登校前に制服のまま、入院している部屋の下にまで来てくれたのでしょうか。桜の咲いている「花の朝」の光景。思わず「優しいね」と声を掛けたくなるような作品となりました。窓の下から入院している人を想う気持ちが読み手にも伝わってきます。
(評)「拈華微笑(ねんげみしょう)」は禅宗で以心伝心のこと。霊鷲山で説法した釈迦が華を拈(つま)んで大衆に示したとき、弟子の迦葉(かしょう)だけがその意を悟って微笑し、それによって正しい法が伝えられたという仏語集によるもの。この場面を「薄氷」を踏む音に喩えたところに、作者の感性が生きて魅力的な一句となっています。
(評)政敵の讒言により太宰府に流された道真公。太宰府天満宮は菅原道真を御祭神として祀る神社です。「東風吹かば」の有名な歌でも分かるように、梅の花を深く愛した「道真」。「散りてゆく」からは、都に咲いた梅が一夜にして太宰府の「道真」の元まで飛んで行き、咲き匂ったという“飛梅”を想像させます。「道真」の人物像を浮かび上がらせる風雅な詠みが、読者を平安の世へと誘うかのようです。
(評)花万朶(はなばんだ)は満開の桜のこと。垂れ下がったたくさんの枝に咲き競うように咲く花を指します。「その恋」は現実に進行形の恋なのか、映画やドラマの中の恋なのか。少しだけ離して詠んだ「その恋」という表現が、奥ゆかしさや淡い想いを醸し出しています。「花万朶」の下五が絶妙で、いずれにしても幸せな結末を想像させてくれます。
(評)「花夜道」に満開の桜の華やかな美しさと共に、何処か移ろいの儚さも感じさせます。俳諧や和歌の中で、花は人生の無常に重ねて詠まれてきました。「花夜道」という優艶な上五の措辞に、中七の気楽さが際立っています。厳しいコロナ禍にあってじっと耐えながらも、何処か読者をホッとさせてくれます。さらにもう一年我慢を強いられる虚しい気持ちを代弁してくれているような一句です。
(評)掲句のハーネスは、盲導犬が体に付ける胴輪でしょうか。訓練を終え合格した犬のみが、盲導犬としての役目を担うことになります。大役を終えリタイアした時にハーネスを外します。お疲れさまの感謝と愛情を込めた作者の想いと、盲導犬の安堵感が伝わってきます。余生となる家族との暮らしが待っている「春の家」の下五が、温かい響きとなって聞こえてきます。
(評)朝のメニューの「春キャベツ」。今が旬のフレッシュさを感じて、それだけで気分が良くなるものです。そんな感情を素直に俳句にしています。柔らかくて、割ってみると芯まで黄緑色。店頭に並ぶのは春の一時だけです。パリパリと剥き、シャキシャキと包丁で切る朝の台所の表情が伝わってきます。上五の「機嫌よき」の措辞が、朝食の用意をする楽しい音を生き生きと響かせます。
(評)切妻など三角屋根の倉の内側で、燕の巣作りが始まっているのでしょう。「破風」は屋根の妻側にある装飾板で、風や雨が吹き込むのを防ぐ役目があります。この場所に毎年帰ってくる燕を愛おしく思っての作。「つばくろよ」と呼び掛ける声が読者の心にも優しく届き、「帰って来たか」の措辞に作者の深い感慨が伝わってきます。平和な日常が目に浮かぶようです。
(評)「恋猫」は夜の闇の中、ペアになる相手を求めて放浪します。春は猫の発情期であり「恋猫」は春の季語です。「恋猫」と「ネオンの街」の取り合わせがおもしろい一句。春の夢物語は秘密めく方が面白く、「隠れ棲む」と詠むことで、猫特有のしなやかで強かな特性を描き出しています。いかにも「恋猫」の夜の恋物語が想像できる一句です。
(評)徳島県の霊山寺を振り出しに、全長約1,400キロの四国八十八か所霊場を巡礼する「遍路」。「結願」はそのすべてを巡り終えることで、最後の八十八番は香川県の大窪寺です。この日、寺に居合わせた結願を成し遂げたお遍路さんの優しさに感銘を受けた作者。その場の鳥のさえずりや柔らかい風、芽吹き始めた明るい山々の景色までも伝わってきます。
佳作
(評)「水温む」とは、立春後の寒さがゆるんできて、池や沼、川などの水から、冬の冷たい感じが消えてあたたまってきたことを言います。明るくなった日ざしに水面がきらきらとかがやき、水辺の植物が芽を伸ばしはじめ、水底の魚も動き出す。春の息吹が触覚、視覚を通じて感じられるようになります。「金剛の杖」という措辞からは、「同行二人」と書かれた笠をかぶった遍路の姿が思い浮かびます。掲句では、金剛杖と「水温む」の取り合わせとして、一句全体で遍路を詠ったところが巧みです。「同行二人」の弘法大師のお守りを受ける遍路の歩みを、自然の造化のなかで見事に捉えています。