HAIKU日本2020夏の句大賞
特選
(評)子どもたちのグループがきちんとコロナ対応をしているのを見ると微笑ましい光景ながら、こんな世の中になってしまったという実感をも伴ってきます。まだまだ変わるのか、先は見えない。コロナ禍が変えてしまった常識と世情を淡々と詠んだ一句。季語を「夏帽子」として視覚にも鮮やかです。戸惑ったまま春から夏へ突入していったコロナ禍の今だからこそ詠める味のある俳句です。
(評)赤牛は日本固有の肉牛の品種です。季語「夕立」は激しい雨と共にその後の雨上がりを想像させ、洗い尽くされたかのような眩しく美しい光景が広がります。野山に生気が蘇り、草を食む赤牛のまつ毛は金色やオレンジ色に輝くことでしょう。「赤牛のまつ毛」に焦点を当てた観察眼の優れた一句となっています。
準特選
(評)「吃水線」は船が水上に浮かんでいる時の水面と船体との境界線のこと。踝(くるぶし)までしか浸かることができないという作者。水がまだ冷たくて、波に誘われるままに足を浸しているのでしょう。足元だけで海開きという嬉しい季節を感じて満足な景が浮かびます。素直な実感が伝わってきます。
(評)縁側でのほっとして心落ち着いたひととき。「端居」という季語の持つ穏やかさと「高笑い」の取り合わせが楽しいですね。「生きすぎています」というそんな心境は、誰もが味わえるものではありません。楽しそうな笑い声が聞こえてきます。夏の夕、来し方と行く末を思いつつ詠んだ秀句。
(評)川や海で夏の空を見上げながら進む背泳ぎ。伸びやかな爽快感が伝わってくる一句。背泳ぎの眼は、「成層圏の青」を捉えています。成層圏にも届きそうな湧き上がるような思いは未来に向かっているのでしょうか。五・三・九の破調が若さと精悍さを呼び込み、その姿が夏空に眩しい。
秀逸句
(評)「麦秋」は麦が実り黄熟する初夏の頃。「無人駅」を囲む黄金色の麦の穂と緑の山々がコントラストを作り出します。「無人駅」は句の着地点としても、「麦秋」の取り合わせとしても存在感を放っています。こんな駅に立ち寄れば爽やかな風の中、昔ながらの素朴な風景画のような世界に陶酔させられることでしょう。
(評)薄絹や麻などで作った一重の和服が「羅(うすもの)」。盛夏に羽織る軽い装いです。「羅で通す」に背筋のすっと伸びた気骨ある風格が感じられ「男」ではなく「漢」と詠まれています。一本筋の通った一句一章がその意思を伝えており、「なりにけり」と言い切ったところも凛としていて作者の日常が見えてきます。
(評)高く険しい山の八合目で自分の足元に見つけた蟻。その「蟻」に「強かな」存在感を作者は感じています。作者の素直な感性にとても好感が持てます。聳え立つ山と小さな蟻の対比が鮮やかです。作者がやっと辿り着いた「八合目」の「強かな蟻の足跡」には、何か人生訓のようなものが隠されているかのようにも思えます。
(評)「灼けたる」が夏の季語で真夏の直射日光に晒されていることです。最近は恐ろしい勢いで気象変動が起こり、気温は年々上昇しています。公園の「滑り台」の斜面がピカピカに光っていて、昭和からの使い古された鉄製の滑り台を想像します。灼熱の太陽の元で光を放つ滑り台は、作者のこれまでを象徴しているかのようでもあり、言い得て妙な境涯俳句としての魅力もあります。
(評)「曲がりつつ」と接続助詞がうまく使われています。胡瓜は水分や肥料を適正管理することによって真っ直ぐに育てられ食卓に届きます。最近では、スローライフの自給自足が注目を集め、家庭菜園を楽しんでいる方も多いでしょう。「曲がりつつ」育ち個性を発揮しながら「自己主張」する胡瓜にも、しっかりと愛情を注ぐ作者の日常が詠み込まれています。
(評)「蛇の衣」や「蛇皮を脱ぐ」ではなく「蛇脱げり」と変化させたのが作者の個性。殻を脱ぎ終えた蛇が目の前にいるという面白さがあります。蛇が殻を脱いでみると、感染しないさせないの「新たな日常」が始まっており人々は窮屈さの中で息を潜めていました。コロナ禍の世の中に気づいて驚いている蛇がいるとの発想もユニークです。
(評)季語「夏始」は、新緑が美しく吹く風も清々しい初夏の頃です。太陽のきらめきの中、「水溜り」には雨上がりの青空がくっきりと映り込んでいます。「水溜りを跨ぐ」ではなく「空を跨げば」と詠んだところに躍動感が感じられて、「夏始」の季語ととてもよく響き合っています。この動作が生き生きと伝わってくるリズミカルで心地よい俳句です。
(評)“黒衣の天使”とも呼ばれる「黒揚羽」のイメージは気高さと儚さの同居。人影のない里山と空を舞う黒揚羽の静と動を詠んだ一句。「音も無く」がもう人のいない里山に現れた「黒揚羽」をクローズアップさせます。過疎によって日本の原風景が消えていきます。里山を縫うように飛ぶ黒揚羽の優雅な姿が、一層静寂を深くさせています。
(評)女性の句かと思いきや作者は男性。この句は、空想でも写実でもなく内面の具象です。ガラス瓶を軽く揺らすと水の中を漂う花。いつも受け身の「水中花」と「来ぬ人」を待つ受け身の恋。その心情を「水中花」に預けた一句。真実と嘘を併せ持つかのような「水中花」と「許してしまふ」の措辞とがよく似合っています。
(評)「大西日」が実によく効いています。この作業に何か緊張感を漂わせます。「西日中」や「西日射す」などのじんわりとした季語ではこの迫力は出ないでしょう。じりじりと暑い夏の夕刻、「大西日」で肉を急速解凍させつつ、それを調理する作者の手際の良さを表わしています。キッチンを忙しく立ち回る作者の姿が見えてきます。
(評)「薄暑」は夏の始めの一番気候の良い時で、涼風や木陰がほしくなる気持ちの動き始める頃とされます。夏へと移る季節の中「亡き母」を想うひととき。作者の愚痴を仕方ないねとやさしく聞き流してくれることでしょう。人は過ぎ去ってしまったことをあれこれと悩むものですが、亡き母になら些細な事でも甘えることができますね。
(評)「慟哭」は大声をあげて泣き悲しむこと。今年の梅雨はそんな梅雨であったかと思います。しっとりと降る梅雨のイメージとは様相が一変しています。豪雨で河川は氾濫し、山は耐え切れず土砂崩れを起こす。自然の脅威に為す術もなく息を潜める人間の心の叫びとも取れる一句です。「そんなに泣くな」という呼び掛けが切実です。
(評)「検温に始まる」の措辞が今の世情を語っています。手指消毒や検温が必須となり、そうした日常の変化に人は速やかに順応しつつ生きています。紫陽花は日毎に花の色が変わることから「七変化」と呼ばれます。「七変化」と詠むことで社会性を帯びた一句になったといえます。コロナへの対応で日々言動の変わる政治家らへの皮肉も交じっているのでしょうか。
(評)「ハイ!チーズ」と誰が言い始めたのでしょう。笑顔を写す定番の言葉になっていますが、これを俳句に仕上げた作者も素晴らしい。夏の夜のひとこまが映像としてくっきりと見えます。「消えぬ間に」が、人の運命にも似てどこか切ないですね。楽しくてほろ苦く、儚さゆえに美しい「線香花火」の一景です。深い余情を感じさせる一句。
(評)「五月雨」は田植の頃の雨で、農家にとってはありがたい雨です。けれど降り続く雨は歓迎されないことも多いでしょう。「短調の五月雨響く」と雨音が寂しく作者の耳に届きます。「短調の」と音を聴かせ、何処からかというと「マンホール」から。「マンホール」の下五によって響いてくる雨音が臨場感を増してきます。
(評)“Go To トラベル”に乗ることなく「巣籠り」を続ける作者。楽しみは日々琥珀色に染まっていく「梅酒」なのでしょう。飲み頃となる日を心待ちにしながら、家に籠る一人の人間像が浮かびます。自分ではどうにもならないという心境を詠んだ作者のペーソスが滲み出た一句。
(評)「山雀(やまがら)」は、愛らしい鳥で高音の鳴き声が特徴です。野鳥の中ではあまり人を恐れない鳥なので、よく母の庭にやってきていたのでしょう。さまざまな鳴き声で仲間に合図を送りますが、その鳴き声を作者は「母に別れを告ぐがごと」と詠んでいるので作者の母への心情と重なっているのかもしれません。
(評)重厚な一句は、立場の違う国とその背景をも語っているかのような生々しさがあります。描き方は違っても悲惨さには変わりはなく、アメリカも日本もお互いに過去の暗い歴史を経験しています。二度と過ちを繰り返してはなりません。75年目の原爆忌に歴史の真実を収録したシーンが目の前に繰り広げられています。平和を願わずにはいられない作者の願いが届いてきます。
(評)「花樗(はなおうち)」は、淡い紫色の小さな花を房のように咲かせます。遠目には紫の靄がかかったような佇まいです。「霊柩車」との取り合わせによって、この句に独特の雰囲気を醸し出しています。心の内を抑え込んだ詩情豊かな作品。村を出ていく「霊柩車」を見送るかのような「花樗」の姿が情景を一層哀しくさせる一句です。
佳作
(評)「腹筋百回」は八音です。字余りによる破調の句ですが、一句の中に三つある促音(小さい「つ」)によって、勢いとリズムが生まれています。また、「百回」という単語が繰り返し出てきています。繰り返しはリフレインという技法で、印象を強めたり、俳句のリズムをなめらかにしたりする効果があります。室内で腹筋をしていると、体を起こしたときに窓から夏空が見えたのでしょう。一回一回に気持ちを込めて集中して腹筋をしている様子がうかがえます。充実した達成感が伝わってきます。