HAIKU日本2020春の句大賞
特選
(評)春の長閑な風景の中にある可愛らしい土筆の風趣ではありません。作者が独特の感性で受け止め詠み上げた一句。確かに土筆の茎は生身の人間の色をし、その頭は黒く焦げているようにも見えます。こんな風に土筆を見た人はいないでしょう。春の土筆の光景におよそ似つかわしくない「被爆」という暗喩に、今の社会情勢への作者の心情がよく表されています。ほのぼのとした土筆の写生句とは一線を画した衝撃の一句。
(評)苔生した参道の匂い、ひんやりとした肌感と静寂が伝わってきます。「萬(あまた)の仏」は立ち並ぶ慰霊碑や墓石でしょうか。高野山の奥の院参道を思わせますね。そこに可憐に、ひっそりと咲いている菫。説明的な用語を使わずに詠んだ一句です。大と小、剛と柔の対比で作者の感性とイメージが読み手にも伝わってきます。「俳句は体言の文芸」と呼ばれるのにふさわしい一句。
準特選
(評)巡る季節の中での「初桜」の発見は大きな喜びでしょう。ちょうど引っ越し荷物の到着場面に遭遇したのか、固く結んだ荷物の紐を素早く解いていく職人技に「見惚れる」作者。「初桜」と一緒に「荷解きの技」に目を奪われてしまった作者の気持ちもよく分かります。新天地でのスタートを「初桜」が暖かく見守っています。
(評)鳥が繁殖期に出す鳴き声が「囀り」です。雄たちの縄張り宣言とも求愛の鳴き声とも言われています。「囀り染みる山」の表現は、山が囀りで溢れているような感じなのでしょうか。作者の聞いた「囀り」を全山での出来事と大景で捉えて成功しています。様々な鳥たちが賑やかに歌っています。古来詠み続けられてきた春山の景を今に謳う明るく楽しい一句。
(評)春になって日が長くなったと感じるのが「日永」。作者が長編を読みふけった後にも、日暮れはまだ遠く穏やかな時間が流れます。季語の斡旋が実に良く、のんびりとした時間の流れの中で今日という日が暮れていきます。急き立てられるものは何もない。持て余している一日を「日永」が的確に表現しています。
秀逸句
(評)「引鴨」は秋に渡ってきて越冬した鴨たちが、春になり北方へ帰っていくことを言います。ひと冬を越した湖を離れ、空の彼方へ去っていきます。「湖(うみ)新しく展けたる」の措辞には、作者のさあ春が来たぞという喜びがあります。「展けたる」の連体止めにすることで、情景の印象を留めながら上五へと戻ります。鴨のいた湖を思い出し、去っていった淋しさをも詠み込んでいます。
(評)季語「花むしろ」は花見に用いる敷物を指したり、花が散り敷いた景に見立てて詠んだりします。花見を楽しむ微笑ましい様子を詠んだ一句。「赤子」の笑顔が満開の桜の下で輝きを増し、読者も思わず笑みを浮かべてしまいます。ほのぼのとした景が今春は尚更ほっとさせてくれます。
(評)「白梅」には艶やかな紅梅とは違った趣きがあります。ひらがなで「こごえ」とあって「足りる暮しかな」と結んでいます。「こごえ」は小声であり、まだ寒さが残る凍えでもあるのでしょう。掲句の背景には、穏やかで充足した日々が読み取れます。「白梅」の気品ある姿が作者の人生を浮かび上がらせ感慨深い一句です。
(評)「紙切り師」という面白い題材の一句。紙を鋏や小刀で切り抜いて様々な形を作る伝統芸が紙切りです。寄席では客のリクエストに応えて即座に題材を切ると、台紙に載せ大いに会場を沸かせます。「春の色ふらせ」は、次々に色紙を切って鋏が柔らかい春の色を降らせる瞬間でしょうか。鋏から生まれる様子を鮮やかに詠み上げています。
(評)鳴り響く始業ベルの中、薄く張った氷が朝日に晒されキラキラと輝いています。学校でも職場でも使用される「始業ベル」ですが、この句から受けるのは、さあ!今日もと各々の持ち場へ歩き出す情景です。今にも溶けてしまいそうな氷が陽光に晒される中、その儚さと動き出そうとする強い気持ちが一句の中に仕立て上げられています。
(評)今年はコロナ禍によって卒業式も様変わりしてしまいました。
そんな中でも「夢」を卒業生ひとりひとりが抱いています。卒業の感慨と未来への希望。「卒業証書裏」に書かれた「変わらない夢を」の言葉。夢をかなえることを応援してくれる人達がいることの幸せ。その夢がいつまでも変わらず続くことを願います。
(評)新型コロナウィルス禍。俳句でもこの未曽有の感染病を取り上げずにはいられません。暖かくなれば収まるだろうと迎えた春も、卒業式を見送り入学式を見送り・・・。未だに門を閉じたまま静まり返っている保育園は寂しい限りです。やるせなさでいっぱいの日々が続いている今、大変な時代に突入したことを思い知らされる一句です。
(評)「少し」をリフレインさせ一句をリズミカルに詠んでいます。台所での普段通りの暮らしですが、今日をあれこれ振り返りながら・・・。片意地をはってしまった相手は傍にいるのでしょうか。悩んでみたり、反省してみたり。「目刺し焼く」の季語で締め様々な感情が広がります。やはり俳句は季語の斡旋が大切なことを教えてくれます。
(評)竹は春になると地中の筍に養分を送る為、一時葉が黄ばんできます。そして秋になると青々とした葉になります。春に葉が枯れることから植物が黄葉する秋に見立てて「竹の秋」と言いますが春の季語です。笛の持つ音色や、風のそよぎに鳴る竹の葉の擦れの音が作者の想いと重なり詩情を深めています。遺品となった横笛に在りし日の姿を偲ぶ作者の心情が伝わってきます。
(評)「アンニュイ」はフランス語で物憂さ、倦怠、退屈などの意味を持ちます。麗らかな日差しの中、今春はいつもとは違う気分を味わったことでしょう。「春の昼」との取り合わせにも説得力を感じます。世の中の憂さとどこか晴れない気分を穏やかな言葉でくっきりと描写しています。
(評)昼は霞、夜は朧。「おぼろ」は春の夜のぼんやりとした覚束なさを表わす言葉です。例年なら春休みなどの帰省で家族が顔を揃える場面の多いこの時期ですが、今年はコロナ禍によるステイホームの要請下で寂しい春となりました。それぞれが会えない人を気遣う夜が続いています。季語「おぼろ」に心情を託した秀句です。
(評)「蝌蚪」はオタマジャクシの別名。昔ながらに可愛らしく俳句に詠まれてきました。日々「蝌蚪」が成長していくのを見ての作。子どもの成長に例えて「年長組」とした所に微笑ましさが表れていて、暖かい気持ちにさせられます。すこやかに成長する園児の表情も見えてきそうな優しい作者の眼差しが読者を魅了します。
(評)春早々、街に華やぎを与えてくれるのが「ミモザ」。高さ十メートル以上にもなる木で黄色い花が群がって咲きます。鮮やかな色、優しい香り、ふわふわとした丸い形が愛され開花を待ち望んでいた人も多いはず。「母とミモザの座談会」の光景に、花と語らう弾んだ会話が聞こえてきそうです。母が過ごす春の一日を愛情深く詠み上げています。
(評)三月は寒さと暖かさが交互に訪れながら、日が伸びて春の気配を感じます。冬の名残の「三月の静電気」に見舞われた作者。不意を衝かれた驚きを「はじく」という言葉で表現しこの一瞬を印象付けて詠んでいます。ドアノブなどに触れた時にいきなりくる静電気は誰でも嫌なもの。「小指をはじく」の措辞がこの景をうまく伝えています。
(評)春にはアユやワカサギが産卵に向けて遡上します。早春の陽光の明るさに、まだ冷たさの残る風さえも光っているように感じられることを「風光る」と言います。この季語に春を告げる遡上を取り合わせました。清流を泳ぐ群れの中、「横這い」になる稚魚の姿に目を留めた一句。優れた観察力の効いた作品です。
(評)今年は、春のセンバツも夏の大会も甲子園は中止となりました。高校球児の心境はいかばかりかと思います。樟は夏が近づくと青々と若葉が覆い、その生命力が一段と感じられます。まるで頑張れと云わんばかりに球児たちを包み込んでいるかのようです。「夏近し」の瑞々しい風景の中、下五の「背番号」が何とも切なく響いてきます。
(評)家人が寝静まった夜、足を出し管を伸ばしてうごめく「浅蜊」の砂出しの様を「饒舌」と表現した作者。何ともユーモラスな愛着のある一句となっています。何気ない日常の光景の中の小さな命に目を向けています。もう一度あの海へ返してやりたい・・・。そんな思いも読み取れる優しい作品となっています。
(評)心底花を楽しむには程遠い春でした。ステイホームの浸透で人と会えない分ついつい電話は長くなりがちですね。日頃なかなか電話できない相手とも長電話できたかもしれません。花は何も変わっていないのに、人だけが普段とまるで違う時間を過ごしたこの春だからこそ「長電話」が活きています。
(評)数えきれない程の花を付けている「花万朶(はなばんだ)」。主のいない家に咲く桜は空虚さを漂わせ作者は無常を感じます。上五と中七の一語一語が読み手の心に沁み込み、下五の「花万朶」の季語を最大限に生かし切っています。懐かしさや淋しさや思い出と、満開の桜とを対比させて余計にやるせなさが伝わってきます。
(評)「花筏」の本意本情をしっかりと捉え、素直に詠んでいて詩情豊かな作品です。桜の花が水面に散って、様々に形を変え繋がり流れていきます。「また」の副詞が活かされていて、「流れ」のリフレインがぴたりとはまっています。遥か向こうから流れてきて更に彼方へと流れていく時間の経過をやさしい言葉で美しく表しています。
佳作
※俳号で応募された方は、原則として俳号で掲載させて頂いております。
(評)桜餅が風物詩として食される桜の開花時期は、ちょうど年度の節目でもあり、卒業や人事異動など身の回りの対人関係にもなにかしらの変化が及ぶころです。「身を固めても良い年に」とあるので、作者は誕生日を迎えられたのかもしれません。付き合いのある友人たちにも、結婚をして家庭をもつ方が増え、社会的な立場においても、任される責任が増えてきたのでしょう。自分の行く末に思いをいたしながら食べる桜餅に陰翳が生まれ、ドラマ性の宿る作品となりました。